煙管なんでもコーナー
煙管 あなたの、あしたを、あたらしく
阿里山に登り一泊致し、途中山間に蕃社を望み、山にて時々蕃にも出遇ひ候も、此邊は首を取らるゝ恐無之由に候。
蕃犬の写真見當り候に付、同封致します。
人間の素晴しき風貌に引換、犬が貧弱月並なのは物足ぬ様に候も、實状御目に掛候彼等は官貸與の銃に弾丸三、四發を給せられ、鹿、時に熊等を追ひ無駄弾は一發も無き由に候。
写真と文・『臺湾の愛犬家』より 昭和7年
猟犬を連れた台湾の山岳民たち。でっかい樹ですねえ。
日本の近代畜犬史にとって、もうひとつ重要なのが台湾の畜犬史。
台湾の犬達も、諸外国の統治に晒されつつ生き抜いてきました。その姿は、不思議と日本犬の辿った運命と似たものがあるのです。
しかし、日本で目にする「これぞ台湾犬の歴史!」と銘打ったものは、を直訳しただけのシロモノです。不明確な部分の検証や、統治側であった日本の史料を加味した分析なんか殆んどナシ。
近代の台湾は、一時期でも日本が統治していたんでしょ?だったら外国のレポートなんか有難がってねえで、日本人が日本の史料をもとに作成しやがれとモノ申したくなるワケです。
台湾畜犬史において、ウィキペディアのアヤシゲな記述頼りで日本視点と台湾視点の差異すら考慮しないのはあまりに危険です。日台それぞれの記録を比較検討するところからやり直し。
公平を期す意味で、ここでは「日本側から見た台湾近代畜犬史」を取り上げます。
ウィキペディアの内容と突き合わせれば、辻褄が合わない部分や欠落した部分が見えてくるかもしれません。
朝鮮半島の近代畜犬史と同じく、台湾の近代畜犬史も
・一般庶民が飼育していたペット
・山岳民族が飼っていた猟犬
・日本人入植者が持ち込んだ洋犬種
・帝國軍用犬協會と日本シェパード犬協會の台湾支部が普及に努めた軍用犬種
・台湾総督府の警察犬
・台湾総督府による畜犬行政
あたりを整理しないとダメなんですよ。
でも、面倒だから今回も概要だけ述べます。済みませんねえ。
台湾の日月潭にて、杵撞き中の女性たちとワンコ
台湾と言えば「親日・反日」といった基準で語りたがる日本人もいます。海外の犬の歴史にそんなモノサシを持ち込まれても迷惑なので、とりあえず距離を置きましょう。
前回の朝鮮近代畜犬史と同様、日本の統治がどうたらという議論をしたい人も他のどこかでどーぞ。
私は犬の話しかしません。
◆
では、台湾の近代畜犬史のお話なのですが
こちらはこちらで、台湾総督府による理蕃政策を掘り起こしたりする必要があって微妙です。
台湾の近代史はとても複雑です。都市・農村が発展していた同時期に、山岳地帯では血みどろの抗日運動と武力鎮圧が繰り返されていましした。
当時の史料を繙くと、目を覆いたくなるような記述や写真が累々と積み重なっています。こちらは犬の記録を調べているだけなのに、嫌でもその手の史料が集まってしまうんですよね(あまりに凄惨なので、ブログには載せません)。
日清戦争が終結した明治28年。日清講和条約で台湾の割譲が決定された事により、日本軍は台湾進駐を開始します。
これに対し、台湾在住の清朝役人は「台湾民主国」の成立を宣言。台湾各地で抗日軍が武装蜂起し、日本軍と交戦しました。
この戦いを乙未戦争(いつびせんそう)と呼びます。
台湾民主国側は日本に敗れ、海外へと敗走していきました。
乙未戦争以降、清朝に代わって台湾総督府の統治が始まります。それに対し、台湾各地では激しい抵抗が繰り広げられました。
もっとも「台湾の抗日運動」はそう単純ではなく、地元宗教指導者の煽動や大陸から渡来した活動家によるもの、山岳民族による武装蜂起など様々なケースがあります。
また、「台湾人」といってもひと括りにはできないんですよね。
当時の台湾の人口は500万。
うち20万人が、山岳部の「高山族」と平野部の「平埔族」でした。人口の9割を占める漢人にも「本省人(台湾出身者)」と「外省人(大陸出身者)」の区別があり、ついでに当時は日本人入植者まで居ましたから。
清朝が「番(「未開な人々」という意味)」と差別していた山岳民族を、日本も「生蕃」と呼んで同化政策を引き継ぎます。
高山族には「出草」で知られる部族間抗争もありました。日本の統治に恭順した部族もいれば、徹底抗戦した部族もいました。鎮圧作戦でも、同じ民族が抗日側と日本側の両派に分れて戦うという悲劇も頻発しています。
約400年間に亘るオランダ、鄭氏、清国、日本、国民党による支配を含め、台湾の歴史はとても複雑なのです。
だからその畜犬史も、さまざまな面から検討する必要があります。
【山岳民族の犬達】
昭和初期、台湾高山族の若者と猟犬
その狭間に登場するのが、台湾の犬達です。
台湾の犬といえば、山岳民族が飼育していた「高山犬」、現在でいうフォルモサ・マウンテンドッグ(臺湾土狗・福尔摩莎犬)が代表種。
おそらく東南アジア方面から渡来してきた台湾土狗の先祖は、長い年月をかけてこの島の風土に適応していったのでしょう。
1600年代に台湾はオランダの属領となり、ヨーロッパから洋犬が移入されました。
更に、清国の統治時代には中国大陸の犬(チャウチャウなど)が持ち込まれます。
これら外国犬と土着犬が交雑した結果、「台湾犬」と呼ばれる雑種犬も誕生しました。
以降、平野部の台湾犬と山間部の台湾土狗(当時の呼称は生蕃犬)が、「台湾の犬」として定着します。
※とりあえず、戦前の日本ではそのように考えられていました。
オランダに続いて台湾を統治した清国は、山岳民族分離策として「隘勇線(あいゆうせん)」と呼ばれる封鎖ラインを構築。日清戦争後に進駐した日本も、清国の隘勇線を引き継ぎます。
隘勇線で平野部と隔離されたことは、高山犬と洋犬との交雑をある程度防ぐ結果となりました。
同じ時期、日本犬も洋犬との交雑によって急速に消滅。
台湾と日本の土着犬たちは、洋犬が入り込まない山間部で細々と命脈を保つこととなったのです。
当時、台湾犬に注目した日本人もいました。
但し、「生蕃犬(当時の呼称)は日本犬のルーツかもしれない」と考え、調査に赴いた人はごく僅か。
台湾の犬を日本へ紹介したのは、加藤陽、宮本佐市、中島元熊の各氏くらいですかね。
日本犬保存会の資料にもチラッとしか登場せず、本格的な研究対象にはならな
った模様です。
台湾タラッカス社の人々と愛犬
「一家に十四、五匹の地犬を飼育し、立派に番犬、獣猟犬として訓練し、バスボ、サンコン、ワシン、タマタ、ピカル、トパン、サイクブン、ナヲル、トンガツプ、マロン等の蕃名を附して愛児の様に愛育している(宮本佐一獣医)」と記録されています。
昭和14年に台湾南部山岳地帯を三ケ月に亘って踏査した加藤陽氏は、現地の犬についてこう記しています。
生蕃犬の特徴は、體型は日本犬中型程度で、それより幾らか腹が細い。尻尾は巻いてはゐるが、日本犬ほど太くない。
毛色は黒が多く、毛は短く、目は幾分大きいやうだつた。氣質は精悍であるが、主人には非常に従順である。
生蕃犬の特徴は、大體右のやうなものであるが、ではこの犬達は何に使はれてゐるかと言ふと、言ふまでもなく狩猟である。昔ほどではないが、猪狩りは今でも盛んに行はれ、生蕃犬の活躍は目覚しいものがある。
大きな猪狩りになると、頭目が先づ先頭にたつて、その後に十數名の狩人が従ふ。その人たちはそれぞれ矢を持つたり、槍を携へて行く。偶に巡査から鐵砲を借り出して、これを持つて行くこともある。
私は猪狩りの帰りを見たことがあつたが、先頭の男が猪の首を肩にさげて、その首は未だ血がしたたつてゐる。すると生蕃犬は、そのしたたり落ちる血の周りをくるくる廻つて大喜びの態であつた。聞くところに依ると、首だけ持ち帰つて、後は猟場でそれぞれ分配するとのことだつた。
加藤陽『南臺湾 ライ社の犬』より 昭和14年
「水筒を入れたる大なる籠を蕃式に背負ひ、例の長き煙管を口にして犬の御供を随へ、今しも畑に出掛くる老婆は芋にでも掘らんとてならん」
台湾アミ族の女性と愛犬。大正元年
山岳民族の飼育していた土着の猟犬は、オランダ、清国、日本の統治を経て辛くも生き残ります。
しかし、山奥の村でさえ洋犬が入り込むのは避けられませんでした。
加藤氏は、高山犬が交雑化しつつあるのを目撃しています。
ところで、現在生蕃犬はどの位居るかと言ふと、數は非常に減つて、ライ社全部で二、三十頭足らずである。そのため蕃人が、この犬を大切にすることも大變なもので、ライ社から犬を連れ出すことは絶對に許さない。
私は何とか一頭連れて帰らうと思つてゐたところ、都合よく頭目の一族で、私がモデルに使つた蕃人のところに四頭の仔犬が居た。がよく見ると、この仔犬には、どうも雑種が混つてゐるやうに思へた。
と言ふのは、頭目のところに獨ポ(ジャーマンポインター)の雑種がゐるのである。
これは先に述べた新置まで狩猟に来た、本島人の犬が迷ひこんで來たもので、面白いことに、この獨ポの雑種を、頭目が下へも置かぬ可愛がり方なのである。この血が仔犬に入つてゐるやうに思へたので、私は仔犬を連れ帰ることを見合せたのであつた。
と同時に、尠い生蕃犬の間に雑種が珍重せられてゐるやうでは、これ等の純粋な生蕃犬も、年を経ずして雑種になり下つてしまふだらうと思はれ、うたた感慨に堪へぬのであつた(〃)
昭和14年
このような交雑化と伝染病の流行、食糧事情悪化などの影響で、台湾在来犬種は激減します。
大きな打撃を与えたと思われるのが、畜犬税の導入でした。
台湾の畜犬税は、昭和8年頃に提案されています。地方税としての畜犬税が正式に始まったのは昭和12年のこと。飼育登録犬一頭あたり、年間1円が課税されました。
日本の畜犬税と同じく、台湾でも未納税犬は野犬駆除の対象となります。日本犬がそうであった様に、野犬駆除の際に未納税犬が処分されたこともあったのでしょう。
ただし、山奥で飼育されていた猟犬が課税対象だったのかは分りません。畜犬税が武装蜂起の原因になってしまうのは、台湾警察も避けたかった筈ですから。
【台湾総督府の犬達】
山岳民族は、犬をとても大切にしていました。
原因不明の伝染病(犬パルボウィルス症?)でバタバタと犬が死んだ時は、出草を復活して病を鎮めようという事態になりかけたとか。
山岳民族の抵抗を隘勇線で抑え込んだ台湾総督府ですが、それでも武装蜂起は続きました。
密林を自在に動き回る山岳民族の戦士は、想像を絶する険しい山道で動きを封じられた日本兵や警察官を翻弄。
航空機や野砲まで備えた日本側でしたが、山岳ゲリラ戦に引き込まれて次々と犠牲を出してしまいます。
遙か向う、山腹に建設された軍用道路を眺める台湾第一聯隊タケジン支隊員とワンコ。
大正2年の山岳民族討伐作戦にて。
これに対抗すべく、「警戒センサー」として採用されたのが警察犬でした。
明治43年、台湾総督府蕃務署は11頭の蕃人捜索犬(ポインターとブラッドハウンド)を購入。
先に1年間の訓練を終えたジョン、ベル、ポチの3頭を台中庁警察隊に配属し、翌年の眉原社騒乱鎮圧作戦へ投入します。
3頭の警察犬は昼夜に亘って山岳民族の動きを察知し続け、警官隊の行動を有利に導きました。
得意の奇襲攻撃を封じられた眉原社は為す術もなく潰走。
コレを見た佐久間台湾総督は本土から猟犬ハンドラーの田丸氏を招き、大正2年から警察犬の大量配備へと踏み切りました。
同時期には、台湾駐留の日本軍も警備犬(犬種は不明)を採用しています。
こちらは千葉県の陸軍歩兵学校で始まったばかりの軍用犬研究とは無関係。
台湾の部隊が独断で犬を利用したものと思われます。
ドイツから台湾に輸入された種牡犬カルカール。
獨逸シェパード犬協会、日本シェパ―ド犬協會、帝國軍用犬協會の3団体から認定された優秀犬です。
昭和15年の広告より。
山岳民族の生活も、台湾総督府の指導によって狩猟から農耕主体へと転換。
昭和5年の霧社事件を最後に武力蜂起は鎮静化へ向かい、警察斥候犬たちは対ゲリラ任務を離れて本来の犯罪捜査に就きます。
昭和7年、高雄警察刑事課の竹野巡査は、李明家氏より寄贈されたビロー號の運用を開始しました。
このビロー號が犯罪捜査で大活躍した為、上司の宮尾警務部長と橋本刑事課長は警察犬の本格採用を決定。
昭和9年11月1日、高雄警察犬協會(TPHV)が設立され、2名の警官が警察犬係に任命されます。
こうして訓練された警察犬は、昭和11年から高雄州管内の各警察署へ配備。
ブルノー(高橋警務部長)、ケンフェル(清原刑事課長)、アレックス(竹野巡査)、マリー(〃)、潮(高雄警察署)、グリフ(岡山郡警察課工藤巡査)、カスター(堀越刑事)、エルフェ(鳳山郡警察課膝山巡査)、バロン(旗山郡警察課邱刑事)、シュッ
(屏東郡警察課中村刑事)、エイチ(〃緒方刑事)、ゼット(山越刑事)、ビロー(潮州警察課吉原巡査)、メリー(東港郡警察課余田巡査)の計14頭が犯罪捜査に従事しました。
高雄警察犬第一号となったビローですが、昭和7年に台南第二聯隊へ赴任した藤重邦彦少佐の愛犬チェリーと交配されました。
誕生した20頭の仔犬たちは台湾各地の愛犬家に配られ、やがて台湾シェパード界の礎となります。
日本人入植者の増加と共に、台湾の愛犬家も増えます。それに伴ってブリーダーや獣医師も現れ、台湾畜犬界は一挙に発展していきました。
昭和10年より、台北市には鶴山商店、南方荘、竹内畜犬訓練所などの畜犬商が次々と開業。
これらペット商や日本人入植者たちは、様々な洋犬を臺湾に連れて来ました。
昭和9年6月2日には、圓山動物園にて同園主催の各犬種總合展が開催。57頭が出陳されました。
満洲国の犬ほど特異な用途ではありませんが、台湾でも養豚場や金鉱山の警備犬、農場の捕鼠犬などといったユニークな使役犬が記録されていますね。
【台湾犬界と戦争】
台湾犬界の発展と共に、「マラリアは在ってもフィラリアが無い」臺湾は、軍用犬の繁殖地として注目されるようになりました。
台湾にシェパードが移入されたのは昭和7年頃から。台湾軍へ異動する陸軍歩兵学校軍用犬研究班出身者などが、シェパードを連れてきたのが始まりと言われています。
昭和8年、鈴木菊一大尉が台湾歩兵第一聯隊内に軍犬班を設立しました。昭和10年2月23日には、臺湾軍用犬同好會(会員数40名)が発足。この同好会は、6月になって社團法人帝國軍用犬協會(KV)に合併し、KV台湾支部となりました。
同時期、台湾初の犬雑誌「南方犬界」も発行されています。
翌年4月29日より臺湾軍用犬展覧會が始まり、本土のKVとの連携も強化。KV台湾支部は、島内各地にシェパード・ドーベルマン・エアデールを普及させるべく軍犬報國運動に取り組みます。
昭和13年7月31日、台湾での軍用犬購買審査会
。
翌8月1日、入営が決まった台湾の第4回出征軍用犬たち。
向かって左より福知部隊長副官、藤重邦彦中佐。右端は宮本佐市獣医。
同じく献納犬は
陳猛喜氏愛犬 アリベルト・フォン・ツィビルポリツァイ
三巻俊夫氏愛犬 フロット・フォン・イチラクソーKZ9
顔徳潤氏愛犬 ムツ 未登録犬
幾島富太郎氏愛犬 スター・フォン・ハウス・タナカKZ10201★
金藤孝淳氏愛犬 バルダ・フォン・ハウス・センコウKZ5211★
武田常男氏愛犬 アイリー・フォン・ハウス・林城KZ15749
林華馥氏愛犬 セロープ・フォム・ハウス・ワダKZ24016
陳来発氏愛犬 ルイゼイ・フォム・ハウス・ナカジマKZ5211★
李水添氏愛犬 チス 未登録犬
西牟田國彦氏愛犬 テツ 未登録犬
笹原高國氏愛犬 ドルフ 未登録犬
矢野重之氏愛犬 ピロー 未登録犬
その成果は大きく、僅か数年の間にシェパードの飼育頭数は700頭に増加。これから終戦に至るまで、台湾は青島・朝鮮に続くシェパードの一大蕃殖場となったのです。
台湾で調達された日本軍犬たちは、現地部隊と共に大陸の戦線へと出征していきました。
ドルフ號のように戦地から台湾へ凱旋帰国した軍犬もいます。しかし、大部分の台湾軍犬たちは戦場に散りました。
昭和13年、鳥渓山攻防戦直後の台湾高橋部隊軍犬班。
前列右より、生き残った伝令犬ドルフ號と北垣上等兵、戦死したギンベル號の遺骨を抱く金田一等兵。
後列右よりアルドー號の遺骨を抱く北条上等兵、浦部・石井両上等兵の遺骨を抱く原軍曹(軍犬班長)、トッパ號の遺骨を抱く村岡上等兵、ビービー號の遺骨を抱く田代一等兵。
鳥渓山を巡る中国軍との攻防戦では、包囲網を突破しようとする日本軍伝令犬が次々に戦死します。
その中には、台湾から出征した軍犬も含まれていました。
台湾駐留の日本軍は、在来犬の軍用化研究にも取り組んでいます。
訓練の結果、テスト犬の「くり」は伝令任務までこなすようになりました。しかし、くりは主人の軍犬兵以外に懐こうとせず、親和性の欠如という軍用犬にとって致命的な欠点が判明。早々に失格となります。
以降、日本軍が台湾土着犬を配備した公式記録はありません。
台湾では充分な数のシェパードが飼育されていたので、他犬種は必要とされなかったのです。
狩猟は何れの族を問はず皆好む所にして、従つて古より犬を飼育し、狩猟に使用せり。然れども、近時交通頻繁となるに従ひ、他犬種と交雑し、其の純粋なるものは交通不便なる奥地蕃社に之を求めらるゝのみなり。
之が習性は飼育者に對し絶對服従し、山野の跋渉、特に斜坂の昇降に巧なることなり。
毛色は黒又は褐の単毛色を主とするも、下腹部及四肢下端に白色を混ずるものあり。
此習性を軍事的に利用する目的を以て高雄州屏東郡ライブアン社(台東庁との境界)より牝牡各二頭の献納を受け、昭和十一年十二月三日、台湾山砲兵聯隊に繋畜す。
彼等蕃人は殆ど薯を常食とするを以て、犬の飼料は更に栄養價値少なきものなり。されば着隊當時は生後五箇月(五月二十五日より六月三日までの出生)發育不十分にして、従つて栄養不良なり。依て普通飼料に慣熟せしむる迄には約二ヶ月を要せり。
此間環境の變化により疾病、特に犬瘟熱(※ジステンパー)に罹るもの多きを以て、之が豫防接種を行ふと共に、數回に亘り駆蟲を行ふ。
本年一月より正規の訓練を實施し、目下概ね基礎訓練を了し、咥搬は不十分なるも、生地約一粁の傳令能力を有し、概ね軍用に適するものの如し。
然れども、人に對する親和容易ならざるを以て、兵の交代により其の訓練を或程度に破壊する處あり。又犬體小にして體力十分ならず。
其の平均體高四三.○○糎、平均體重一三.三六瓩なるも、着隊當時は削痩骨立し、平均體高三一.○五糎、平均體重四.ニ五瓩なり。一般外貌写真の如し
台湾軍獣医部による台湾犬の評価より 昭和11年
台湾山砲兵聯隊軍犬舎にて、訓練中のくりちゃん(♀) 昭和11年
困ったのは、台湾が日本の悪徳畜犬商に目を付けられてしまったこと。
悪行が祟って日本の畜犬商組合から排除された彼等は、稼ぎの場を台湾へ移したのです。
台湾では、「通販で日本から犬を購入したところ、純血種を注文した筈が雑種犬を送り付けられた」という詐欺被害が続発します。
クレームを入れても相手は海の彼方。そうこうするうち雑種犬
も愛着が湧いてしまい、泣き寝入りしてしまうケースが殆んどでした。
「台湾は犬の捨て場ではない」という怒りの声が、日本に届けられたのもこの頃です。
イロイロな出来事もありましたが、このようにして台湾畜犬界は発展します。
近代の台湾にいたのは、土着の在来犬種、台湾総督府の警察犬、台湾駐留日本軍の軍犬、帝國軍用犬協會台湾支部登録犬、そして台湾の愛犬家が飼っていた普通の犬達。
ひとつの島に複雑な歴史と多数の民族が内包されているので、彼等と共に暮す犬の歴史もそれだけフクザツだった訳です。
この時代に築かれた畜犬界が、解放後の台湾犬界にどのような影響を与えてたのかも検討すべき課題のひとつ。でも、イロイロあって難しいんだろうなあ。
台湾畜犬史に関しても、誰かの逆鱗に触れぬよう注意しつつ話を進めるしかないですね。
このように考えていると、記事を書く前からゲンナリしてきました。
気が向いたら、そのうち完成します。
煙管店舗直販売店
元盗賊・舟形の宗平
◆「いまから、死んだつもりになれ」
「へ・・・・・?」
「与吉への供養とおもい、生まれかわって、世のため、人のためにはたらけ」
「え・・・・・?」
「おれの手つだいをしろ」
「では、密偵(いぬ)に・・・・・?」
「盗賊仲間ではいぬとよぶそうな。なれど、この平蔵と共に、いのちがけではたらくことに変わりはない。どうだ?」
「へ、へい・・・・・」
「すでに、舟形の爺つぁんは承知してくれたぞ」
「えっ・・・・・」
宗平老人が、微笑(ほほえ)みつつ、五郎蔵へ何度もうなずいて見せた。
「と、爺つぁん・・・・・」
「この、長谷川さまのおために、やろうじゃあねえか、五郎蔵どん」
「よし、きまった」
と長谷川平蔵、にっこりとして、同心・酒井祐助に、
「さ、早く盃の用意をせよ。宗平と五郎蔵は、いまこのときより、義理の親子の縁(えにし)をむすぶのだ」
と、いった。
(四)敵
◆宗平は吐き出すように、
「もっとも、惣七の正体を知っているものは盗賊仲間でも多くはございますまい。なにしろ人当たりがよくて、しっかりした男に見える。そこが役者くずれで何しろ演技がうめえので・・・・・こいつはね、長谷川さま。ときたま、他人のお盗めを横取りするんでございます」
(七)泥鰌の和助始末
◆「長谷川様。一度、うちの爺(とつ)つぁんに見せたらいかがでございましょう?」
「そうだ。宗平爺つぁんがいたのを忘れていたわ」
舟形の宗平は、かつて初鹿野の音松の[軍師]などといわれたこともある老盗賊であったが、大滝の五郎蔵ともどもに盗賊改方の御縄にかかり、長谷川平蔵の人柄に心服をして、二人は義理の親子の縁をむすび、本所・相生(あいおい)町で小さな煙草屋をひらき、蔭へまわって盗賊改メの密偵をつとめている。
だが、七十をこえた宗平だけに、このごろは躰のぐあいがおもわしくなく、寝込んでいることが多い、と、平蔵は耳にしていた。
「五郎蔵。では、すまぬが爺つぁんに来てもらってくれ。駕籠をさし向けよう」
平蔵が迎えに出した駕籠へ乗り、宗平が役宅へあらわれたのは、その日の八ッ(午後二時)ごろであった。
「このごろ、ぐあいはどうだな?」
やさしく問いかける平蔵に、宗平は、
「さて、あと一年がほどは保(も)ちましょうが・・・・・」
淡々と、こたえた。
痩せた、小さな顔が妙に青ぐろく浮腫(むく)んできて、立居振舞にもまったくちからがなかったけれども、
「さ、そいつの顔を見せていただきましょう」
いったときの眼光のするどさは、さすがである。
「どうであった?」
白洲の物陰から奥庭へもどって来た舟形の宗平の老顔を見たとたんに、平蔵は、
(あ・・・・・宗平は知っていたな)
と、感じた。
果して宗平は、平蔵にこっくりとうなずいて見せたではないか。
(九)雨引の文五郎
◆五郎蔵は、今度の見張りを命じられたとき、煙管師・松五郎こと[長虫の松五郎]については、平蔵からきかされていた。
盗賊の首領として多くの配下をつかっていた五郎蔵だけに、松五郎は耳にしていたけれども、
「見たことは一度もございません」
のである。
五郎蔵は当然、今度の探索について、義父の宗平に語った。これは平蔵がゆるしたことだ。
もっとも舟形の宗平は、かの[雨引の文五郎事件]以来、まだ老体が回復せず、本所・相生町の五郎蔵の家の二階で、病床に臥(ふ)せっている。
宗平は、
「長虫の松五郎なら、一度、いっしょにお盗めをしたことがあるよ」
と、いうではないか。
「ほんとうかね?」
「うん。ながれ盗めだが大した人だったよ、五郎蔵さん」
(九)鯉肝のお里
◆大滝の五郎蔵・おまさの夫婦と共に暮している元盗賊の宗平は盗賊改方の密偵たちにとり、いまや(生字引)のような存在になってしまった。先日も五郎蔵が役宅へあらわれたとき、
「このごろは、宗平爺つぁんのぐあいが大変よくなりまして、近所あたりを歩けるようになりました」
と、平蔵に告げたばかりである。
長助が不忍池(しのばずのいけ)の方へ去るのを、心行寺の境内から出て来た小間物行商の女が、ひそかに後をつけはじめた。
女密偵のおまさであった。
おまさは昨夜、本所二ッ目の軍鶏鍋屋[五鉄]から知らせを受け、長谷川平蔵と酒をのんでいた舟形の宗平を迎えに行き、相生町の家へ連れ帰ったのだが、しばらくして宗平が二階の寝間から下りて来て、茶をのんでいた大滝の五郎蔵・おまさの夫婦へ、こういった。
「長谷川さまは、見逃しなすったが・・・・・どうも気になっていけねえ。あの蛙の長助というやつは、むかしから喧
っ早いやつでな。右脚を切り落されたのも、お盗めのときにではねえのだよ。道で、酔っぱらいの剣術つかいと喧嘩をやらかし、叩っ切られてしまったのさ。長助は何度も、わしが以前のお頭、初鹿野の音松のところへ助ばたらきに来ていたので、わしとは顔なじみなのだ。
まぁ、片足になってから足を洗い、下谷の、ほれ、茅町の心行寺という寺の近くで耳掻きを削っていたっけ。まだ、そこにいるかも知れねえ。どうも妙だよ。耳掻きふぜいが御家人に三十両返せとわめいたり、長谷川さまへ一分やって見たり・・・・・ふ、ふふ。むだかも知れねえが、おまさ。お前、ちょいと当って見ちゃぁどうだえ。おもいのほかに、大きな魚が引っかかるかも知れねえぜ」
そこで、おまさが今朝早くから、張りこんでいたというわけなのである。
(十)蛙の長助
◆「おれのような老いぼれは、いつなんどき、野たれ死をしてもいいと、以前はおもっていたものだが・・・・・まあ、生きていりゃあ、長谷川さまの御役に立つこともあろうかと、考え直すようになったよ」
と、五郎蔵やおまさに語ったそうで、つまり、それだけ当人の
「病気をなおそう」
という意志が強くなっていたのも、回復の原因といえたろう。
(十一)穴
◆七十をこえた老密偵・舟形の宗平は、このごろ、大分(だいぶん)に健康を取りもどしたようである。
宗平は、今年に入ってから、大滝の五郎蔵・おまさの密偵夫婦に、
「御飯ごしらえは、わしが受け持つぜ。もう、元気になったことだし、いつまでも楽隠居におさまっていると、尚更、惚けてしまう。わしもな、お前たちが長谷川さまのお役に立っているとおもえば、できるかぎり、手つだいをしてえのだ。といっても、もう、外を歩きまわって御用をつとめるわけにもいかねえ。それは、お前たちにまかせ、留守番なり御飯ごしらえなり、やれるだけはやって見てえ」
と、いい出した。
そこで、五郎蔵とおまさは、本所・相生町の家へ宗平ひとりを残し、安心をして市中探索へ出かけられるようになった。
また宗平は、なかなか器用に惣菜をこしらえたりする。
「こいつはいい、田螺(たにし)は五郎蔵どんの大好物だ」
これをゆでて剝身(むきみ)にし、葱(ねぎ)をあしらい、饅(ぬた)にしたものは、大滝の五郎蔵が若いころからの大好物であった。
何故、舟形の宗平が、それを知っているうかというと、むかし、ふたりは大盗・簑火の喜之助のもとで、みっちりと本格の盗みばたらきを修業し、宗平は五郎蔵の面倒をよく見てやったからだ。
のちに、五郎蔵はひとかどの[お頭]となり、宗平は老い果てて、盗賊・初鹿野の音松の盗人宿の番人となった。
この二人が再会し、長谷川平蔵の御縄にかかり、ついに、火付盗賊改方の[密偵]となったいきさつは、あの[敵(かたき)]の一篇でのべておいた。
(十二)見張りの見張り
◆大滝の五郎蔵・おまさ夫婦の家は、本所相生町四丁目の裏通りにある。
五鉄からも二ッ目橋からも目と鼻の先だ。
七十をこえた老密偵で、夫婦と親子の盃をかわした舟形の宗平は、このところ、すっかり丈夫になり、小さな煙草店の店蕃をしている。
[五鉄]で墨斗の孫八と会った翌朝、まだ暗いうちに起きた五郎蔵が、
「おまさ、起きねえか。御役宅へ駆けつけて、昨夜の顛末(てんまつ)を長谷川さまへ申しあげなくちゃあならねえ」
「あいよ」
おまさが、あわてて飛び起き、階下へ行くと、早くも宗平は、台所で朝飯の仕度をしている。
「あれまあ、すみませんねえ」
「なあに。これがいまのわしのおつとめさ」
(十三)墨つぼの孫八
◆夫婦の義理の父親になって、煙草屋の店番をしている元は盗賊の舟形の宗平老人も、
「その百姓娘が耳にしたという、二人の盗人が板橋の旅籠にいたことを忘れちゃあいけねえ。わたしにいわせれば、その後の板橋宿の旅籠が一軒も商売をやめていねえことが、かえってどうも、臭(にお)ってならねえのだよ」
といったものだ。
(十四)浮世の顔
◆縁あって、この密偵夫婦(大滝の五郎蔵・おまさ)の義父になっている、元盗賊・舟形の宗平は、いま、二階の部屋に眠っている。
七十をこえて、一時は病(やまい)がちだった宗平だが、近ごろはめっきりと丈夫になり、小さな煙草屋の店番もするし、いつとなく耳へ入る巷(ちまた)のうわさにも敏感で、宗平は宗平なりに、長谷川平蔵の手助けをしていることになる。
(二十二)人相書二枚
◆五郎蔵夫婦は、これも元盗賊の舟形の宗平と共に住み暮している。
血のつながりは全くないが、五郎蔵夫婦は宗平を[義父]とおもっているのだ。
「八十に近くなってしまっては、留守番が精一杯のところだ」
だが宗平は、器用に総菜をこしらえたり、家の表口を改造した店で煙草を売ったりして、いまも矍鑠(かくしゃく)たるものがある。
盗賊の経歴が長かっただけに、宗平は五郎蔵夫婦の探索についても、適切な助言をあたえてくれるし、以前の[見張りの見張り]事件では、煙草を買いに来た盗賊と出合ったのがきっかけとなり、手柄をたてているのだ。
舟形の宗平に見送られ、おまさは家を出た。
「おとっつぁん、後をたのみましたよ」
いい置いて、家を出たおまさの後姿を見送りながら、
(今朝のおまさは、ちょいとおかしいな)
宗平老人は、くびをかしげた。
さらに・・・・・。
小柳安五郎が[笹や]へあらわれる前から、 弥勒寺・門前に坐り込んで、物乞いをしている薄汚い乞食の老爺こそ、久しぶりに外ではたらきはじめた舟形の宗平であった。
宗平は、小柳が去り、五郎蔵が去って後も、まだ弥勒寺の門前からうごかなかった。
念には念を入れているのだ。
煮しめたような手ぬぐいを頭からかぶり、その陰(かげ)から、舟形の宗平のするどい眼は、お熊の茶店のまわりを注視(ちゅうし)している。
(二十三)特別長編 炎の色 夜鴉の声
🔶舟形の宗平は、お熊の茶店へ入り、そして出て行ったお夏を道の向うから見ただけで、その正体を見破ってしまったのである。
お夏は、女と男がすることを、女どうしですることを好む同性愛・・・・・つまり、いまでいう[レスビアン]らしいと、舟形の宗平は平蔵にいった。
宗平は、三カ条の掟をまもりぬいて死んだ本格派の大盗・蓑火の喜之助のもとで修業を積んだ元盗賊だが、ずっと以前に、これも同性愛の女流剣士・森初子に関わる[白蝮(しろまむし)]事件が起ったとき、
「めったにはございませんが、私の知っている女賊の中にも、こんなのがございました」
と、同性愛の女賊について、平蔵に語ったことがある。
それを思い出した平蔵は、先ず、舟形の宗平にお夏を見せたのであった。
それにしても・・・・・。
五郎蔵を通じ、おまさの報告を聞いただけで、
(これは、どうやら・・・・・)
と睨(にら)んだ平蔵の直感には、さすがの舟形の宗平も、内心、舌を巻いた。
(二十三)特別長編 炎の色 荒神のお夏
🔶五郎蔵夫婦の肚(はら)は、もう決まっていた。
昨夜、舟形の宗平から、
「どんなことがあっても、長谷川様だけは裏切ってはいけねえ。おまさが、どうしても、お糸のことを探(さぐ)りたくなかったら、それを正直にいうがいい。ともかくも、お糸を見かけたことだけは、おつたえしろ」
と、いわれた。
そこでおまさは、昨日の一件を包み隠すことなく、平蔵へ打ちあけたのである。
(二十四)特別長編 誘拐 女密偵女賊
舟形の宗平が関わった者
五郎蔵夫婦
・五郎蔵夫婦は、これも元盗賊の舟形の宗平と共に住み暮している。
血のつながりは全(まった)くないが、五郎蔵夫婦は宗平を[義父]とおもっているのだ。
(二十三)炎の色
・この夜は、五郎蔵夫婦と、元盗賊で、いまは夫婦の[義父]になっている舟形の宗平の三人が、明け方近くなるまで語り合っていたようだ。
(二十四)女密偵女賊
助次郎
・近江の八日市に住んでいる鍛冶屋。裏へまわると盗人仲間でいう鍵師。それも名人なのだ。
(十一)穴
玉村の弥吉
・弥吉は、この春に密偵となったばかりで、五郎蔵の家の二階で、舟形の宗平と枕をならべて寝ている。
(二十二)人相書二枚
長虫の松五郎
・宗平は「長虫の松五郎なら、一度、いっしょにお盗めをしたことがあるよ」
と、いうではないか。
(九)鯉肝のお里
初鹿野の音松
・舟形の宗平は、七十を越えて初鹿野の音松の(盗人宿)の番人となっていた。
(四)敵
蓑火の喜之助
・舟形の宗平は、もと蓑火の喜之助一味。
(四)敵
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蒸気機関において、より効率よく水を沸騰させるために用いる、高温の煙――燃焼ガスを通す管のことを煙管と呼びます。煙管の周囲を水で満たすことにより、効率良く、蒸気を作ることができる仕組みになっているのです
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