煙管商品を自宅にいながら手に入れよう
―さあ、旅を始めよう。本当の故郷へ帰るために。
***
大人になるまでの少女は
瓶の中に閉じ込められる
集められた瓶たちは
匣という小さい庭の中で
世界の理と機微を教わる
貴方はいつも意地悪で
息が出来るくらいの水で
私を浸す
教育を受けているの
それぐらい判ってるわ
時には踏みつけたりして
離そうとするけど
そうされる度に
近づくこと知っているでしょ
すれ違った服の裾も
硝子を拾う指も
すべて愛撫のように
感じているのに
触れたことを
触れなかったことに
されてしまうの
桜の時節は
選びたい未来を
瓶の壁に描いてみる
もしここから出た時は
結った髪を解くように
大人になったことを伝えたくて
その頃には この瓶も学窓も
仲間たちも消えて
貴方の笑みだけが残るでしょう
指に嵌められた錠を
今すぐに壊せば
黄昏のような日々が訪れるかしら
でもきっと
禁じられた遊びのように
瓶を割るときめきには敵わない
***
鳥居の外れ
僅かなる異次元
火の御霊が灯す
灯篭通りを行けば
嗚呼、今宵は凱旋日和!
生は何處まで
死は何處まで続くのでしょう
その先の世界は在るの
黄昏を暈す紫煙は
百済ねえと
愚弄を投げかける
杞憂を弾き出す
脳味噌なんざ
揺さぶり犯してやろう
扇子の蝶が
妖しく舞い踊る
静かなる祝辞の如く
灯篭通りの狭間で
我が城にひれ伏すがいい
遺伝子が嗤う
薄情者め
愛と凶器は紙一重ぞ
・・・貴方ノ瘴気ヨ蝕ンデ
既ニ人デ非ザル私ヲ
現世ハ流レユク桜雲ノ
淡キ夢ノ如シ・・・
今宵の夢は苦い
煙管の薫り
煙一つ残さず消えていった
相変わらずの態度
厭わしいほどの
桜吹雪の中
この体の半分が 貴方の魂と同じ
醜悪となっても構わない
ひと吹き 掌に乗る
桜の一片
***
夕暮れ 海辺の列車で
あの頃の空港へ
夕餉の懐かしさで包むあの歌で
黄昏れ 潮風が香る
空に一番近いデッキで
雲の流れを吸い込んで
時を止めよう
船が音もなく行き交う
靄に浮かぶ幻のように
私たちはどこへでも行ける
海がそっと囁くわ
夕陽をも飲み込む空へ
飛んでいく飛行機のように
私一人でも 夢や愛を持って行ける
鳥のようになりたい
春の夜 闇の帳に
瞬く星屑 帰還する鳥
寝静まる世で一人
夜風に手を広げ夢想飛行
珈琲 グラスの先で
抱き合う二つの人影
愛の言葉すらも聞こえない
轟音でかき消して
今いる場所も 目的地も
解ってる飛行機のように
私一人だけ 夢や愛を忘れて
この柵を飛び越えたい
***
ねえ私に今すぐ魔法をかけて
あの頃に戻れなくてもいいの
最初っから白魔術を
かけられていたならきっと
今もその先も幸せ
貴方の愛が欲しいの
何か物足りないのよ
だけどそれに勝るものも無いの
黒魔術をかけられていたなら
今もその昔も
魔法使いも不幸せ
お母様 私に魔法をかけて
もうあの頃には戻れないけど
解かれても二度と消えることのない
魔法をかけて
***
歩いてきた道を振り返って知った
生まれた理由(わけ)を
今 語ることはできない
嫌われて憎まれて 生きてきたから
旅を始めるときは
堕天使のように飛んで落ちていくのよ
地球の歴史の中で
僅かな時間の人間ほど
風化を恐れ 夢を追っていく
忘れられるほど存在している自然
刻まれるのは 時の傷
愛した人の顔のように
ああ 愛してくれた人よ
幽かに残る口づけの痕
握りしめる忘れ形見が
血に染まっていく
誰も本当の意味を知らぬまま
一人の天使を空へ放ってしまった
嵐が通り過ぎたように
音沙汰もなく
人々に深い傷を残して
一筋の煙となって雲になる
***
今宵は憂える患者
四肢を動かせない 病
見えない鎖に捕らわれ
窓の外で時をはかる
来るはずのない誰かを
ただ待つばかり
今宵は蟲
破れた翅を広げ
死んだように留まる
透けた翅の向こうに
暗い七色の光
通り抜けて教会の天井(そら)
叶わない
貴方への想いを
焼けるように身体に焦らす
厭わしく惨めで美しい
私への恋の病
私は恋する乙女
夜毎、夢への飛行
どの世界でも
貴方を追いかけている
夢でも恋をしているの
***
ごきげんよう、皆様。黒薔薇です。
もう5月ギリギリですが、無事春季ポエム『Psychotic Journey』を公開することができました。
詩やジャケ写については没案集&解説で書くので置いときます。
…となるとここで書くことは無くなるのですが(笑)
いつも”間に合うだろうか”、という思いが過りますが、
こうして必ず達成するのです。出来なければ言い訳を(笑)
作品以外のこととなると夏季の話になりますが…
6月からもう夏季ポエム期間なんですよね。
そうなると激務だよね~(笑)みたいにするのもアリかも。
とにかく、こうして見るとまた写真加工の腕が上がり、
美しい写真と詩ばかり。
本当に作り甲斐があります。
ぜひ感想などお待ちしております!コメントでもインスタでも
それでは、夏へと近づいている今日。素敵な日々をお過ごしくださいませ。
我が黒薔薇卿歓楽館は、そんな素敵な日々のための花を、いつでも添えさせていただきます。
煙管をもてはやすアルファギークたち
仕事や家事のの合間に、ほっと一息。
タバコは心を落ち着かせる抜群の効果がある。
日常生活にタバコを上手に取り入れれば、生活は豊かになるんじゃなかろうか。
今そんなことを考えている。
吸う量は、紙巻きタバコ1日10本までなら体に害はないらしい。
でも、なるべく口腔喫煙で。
肺にはあまり入れない方が良いだろう。
煙は舌と鼻で味わうものです。
過度に取り入れすぎると依存症に陥ってしまう。
でもそれは何でもそう。人間はそういう体質らしい。ニコチンに限った話じゃないよね。
私はタバコを始めて5年。もう3週間吸ってないけどどうって事ないよ。
喫煙によって、落ち着いた時間を手に入れよう。
パイプ 1時間
葉巻 1時間
紙巻き 10分
煙管 3分
結果的に初歩の瞑想に近い時間が作れるんじゃないかな。
昔は落ち着いた大人が多かった。
ような気がするのは、タバコの効果があったからかも。
今のままの煙管には可能性がない
出づるより 入る山の端は 何処ぞと
月に問はばや 武蔵野の原 伊達政宗
伊達政宗
曖昧さ回避 この項目では、伊達家第17代当主(仙台藩初代藩主)・伊達藤次郎政宗について説明しています。
伊達家第9代当主・伊達大膳大夫政宗については「伊達政宗 (大膳大夫)」をご覧ください。
伊達藤次郎政宗に因んで命名された小惑星については「伊達政宗 (小惑星)」をご覧ください。
凡例 伊達政宗
Date Masamune02.jpg
伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆)
数少ない隻眼で描かれた肖像画。
時代 戦国時代から江戸時代前期
生誕 永禄10年8月3日(1567年9月5日)
死没 寛永13年5月24日(1636年6月27日)
別名 幼名:梵天丸
仮名:藤次郎
渾名:独眼竜
神号 武振彦命
戒名 瑞巌寺殿貞山禅利大居士
墓所 瑞鳳殿、妙心寺塔頭蟠桃院
官位 従五位下・左京大夫、侍従、越前守、
従四位下・右近衛権少将、陸奥守、
正四位下・参議、従三位、権中納言、
贈従二位
主君 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
藩 仙台藩初代藩主
氏族 伊達氏
父母 父:伊達輝宗、母:義姫(最上義守の娘)
兄弟 政宗、小次郎、秀雄、千子姫
妻 正室:愛姫(田村清顕の娘)
側室:新造の方、飯坂の局、於山方、荘厳院、勝女、妙伴
子 秀宗、忠宗、宗清、宗泰、宗綱、宗信、
宗高、竹松丸、宗実、宗勝、亘理宗根、
五郎八姫、牟宇姫、岑姫、千菊姫、津多
伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。
幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。
目次
1 生涯
1.1 出生から初陣まで
1.2 家督相続から摺上原の戦いまで
1.3 小田原合戦と豊臣政権下
1.4 関ヶ原の戦いと最上陣
1.5 仙台開府と慶長遣欧使節
1.6 大坂の陣
1.7 晩年
2 人物・逸話
2.1 眼帯の由来
2.2 「独眼竜」の由来
2.3 徳川家への忠誠
2.4 ヨーロッパでの名声
2.5 天下取りの野望
2.6 趣向など
2.7 伊達政宗五常訓
2.8 その他
3 官位履歴
4 居城
5 系譜
6 家臣
7 信仰
8 墓所等
9 伊達政宗を主題とした作品
10 脚注
10.1 注釈
10.2 出典
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
生涯
小室達作(第2代)伊達政宗騎馬像(仙台市・仙台城本丸、2004年10月撮影)
出生から初陣まで
永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の嫡男として、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)から生まれた。幼名は梵天丸。天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。諱の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。史料上にも正宗と書かれたもの幾つかがあるが、これは誤記である。伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが[注釈 1]、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって京より追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。天正7年(1579年)、伊達政宗が13歳の時、仙道の戦国大名であった三春城主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫(伊達政宗と同じく伊達稙宗を曽祖父にもつ)を正室に迎える。天正9年(1581年)4月、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る。
家督相続から摺上原の戦いまで
伊達 政宗の馬印(右)
伊達 政宗の馬印(左)
天正12年(1584年)10月、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となる。この時、政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けている[要出典]。
小浜城主・大内定綱は二本松城主・畠山義継と手を組み、田村氏の支配から脱却しようとした。天正13年(1585年)、政宗は大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめの為として撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにしている。大内定綱の没落を間近で見た義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより5ヶ村のみを二本松領として安堵されることになった。ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出たところを拉致される。当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。この事件については、鷹狩中の手勢がなぜか鉄砲で武装していたかを根拠に、政宗による父殺しの陰謀と見る説もある[1]。
その後、初七日法要を済ますと、輝宗の弔い合戦と称して二本松城を包囲。11月17日、二本松城救援のため集結した佐竹氏率いる約3万の南奥州諸侯連合軍と安達郡人取橋で激突した。数に劣る伊達軍はたちまち潰走し、政宗自身も矢玉を浴びるなど危機的状況に陥ったが、殿軍を務めた老臣・鬼庭左月斎の捨て身の防戦によって退却に成功し、翌日の佐竹軍の撤兵により辛うじて窮地を脱した(人取橋の戦い)。
天正15年(1587年)12月、関白・豊臣秀吉は関東・奥羽の諸大名、特に関東の北条氏と奥州の伊達氏に対して、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
天正16年(1588年)2月、北方の大崎氏家中の内紛に介入して兵10,000を侵攻させたが、黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に遭い敗北。さらに政宗への反感を強めていた伯父・最上義光が義光の義兄・大崎側に立って参戦し、伊達領各地を最上勢に攻め落とされた(大崎合戦)。時を同じくして、大崎合戦に乗じて伊達領南部に蘆名氏・相馬氏が侵攻して苗代田城を落とされてしまう(郡山合戦)。しかし、南方戦線において伊達成実による
内定綱の調略が成功、北方戦線では5月に最上氏との間に割って入った母・義姫の懇願により停戦し、体勢の立て直しが行われた。7月最上氏及び蘆名氏と和議が成立して窮地を脱し、愛姫の実家・田村氏領の確保に成功した。
天正17年(1589年)には会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原で破った(摺上原の戦い)。敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、ここに戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。この頃になると惣無事令を遵守して奥州への介入に及び腰になっていた佐竹氏側から結城義親・石川昭光・岩城常隆らが次々と伊達方に転じて政宗に服属し、なおも抵抗を続けていた二階堂氏などは政宗により滅ぼされた。
このとき政宗は現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の置賜地方、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。これに加え上述の白河結城氏ら南陸奥の諸豪族や、また現在の宮城県北部や岩手県の一部を支配していた大崎氏・葛西氏も政宗の勢力下にあった[注釈 2]。
小田原合戦と豊臣政権下
この頃、中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承していた。伊達家にも秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が幾度か届けられており、政宗はこれを黙殺していた。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたという。
秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)中である天正18年(1590年)5月には、豊臣政権の浅野長政から小田原参陣を催促され、政宗は5月9日に会津を出立すると米沢・小国を経て同盟国上杉景勝の所領である越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に至った。秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属し、秀吉は会津領を没収したものの、伊達家の本領72万石(おおむね家督相続時の所領)を安堵した。このとき遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の指導を受けたいと申し出、秀吉らを感嘆させたという。この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられている。政宗が秀吉に服属してほどなく、北条氏政・北条氏直親子は秀吉に降伏し、政宗の居城・黒川城へ入城した秀吉は奥州仕置を行った。ここに秀吉の日本統一が達成された。
江戸時代に仙台藩第4代藩主・伊達綱村(政宗の曾孫)が作らせた『伊達治家記録』には、小田原参陣前に兄の最上義光にそそのかされた義姫によって毒殺されそうになり、義姫を成敗する代わりに弟の伊達小次郎を斬殺したため義姫は実家に逃走したと書かれており、これが通説となっていた。しかし実際には義姫はその後も伊達家にとどまっており、政宗の朝鮮出兵の頃から母子は親しく手紙のやりとりをしている。義姫が実家の山形城へ突如出奔したのはこの4年後であることが一次史料からすでに明らかになっている[2](詳細は義姫参照)。この「毒殺未遂事件」の正体は、反政宗派一掃のための狂言説もある。
翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露見する。これは氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手したことに端を発する。また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城(城名を岩出山城に変えた)へ58万石に減転封された。このころ、秀吉から羽柴の名字を与えられ、本拠の岩出山城が大崎氏旧領であったことから、政宗は「羽柴大崎侍従」と称した[3]。
文禄2年(1593年)秀吉の文禄の役に従軍。従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった。3000人もしくは1500人の軍勢であったとの記録がある。他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった[注釈 3]、と伝えられる。朝鮮半島では明との和平交渉中の日本軍による朝鮮南部沿岸の築城に際して、普請を免除されていたにも関わらず秀吉からの兵糧の支給を断って積極的に参加するなどして活躍した。ちなみに政宗は、慶長の役には参加していない。
文禄2年以降、浅野長政が取次として伊達政宗と豊臣政権の取次ぎとなっていたが、文禄5年8月14日付けの書状で政宗は長政の態度に我慢がならずに絶縁状を送りつけて絶交を宣言した[4]。秀吉に早くから服属して五大老に選ばれたような大名たちとは異なり、政宗は北条氏と同盟して秀吉と対立するなどし、ほぼ最後に服属した大名だったことから、豊臣政権で重く用いられることはなかった。
文禄4年(1595年)、秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹した。秀次と親しかった政宗の周辺は緊迫した状況となり、この時母方の従姉妹に当たる最上義光の娘・駒姫は、秀次の側室になる為に上京したばかりであったが、秀次の妻子らと共に処刑されてしまう。政宗も秀吉から謀反への関与を疑われ、伊予国への減転封を命じられそうになったが、湯目景康・中島宗求の直訴の甲斐もあって最終的には赦免された。ただし、在京の重臣19名の連署で、政宗が叛意を疑われた場合には直ちに隠居させ、家督を兵五郎(秀宗)に継がせる旨の誓約をさせられている。
秀吉の死後、政宗と五大老・徳川家康は天下人であった秀吉の遺言を破り、慶長4年(1599年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を婚約させた。伝存の基本史料を典拠とする限り、家康と政宗をはじめとする諸大名の縁辺は、法度違反の私婚として、その是非を論ずることはできないとする説もある。この問題の決着が罰則なしの和解になったことも、亡き秀吉に代わる御意の存在を明らかにできないなど法の整備がされておらず、厳密に運用できなかったからである。家康の縁辺問題を違法な私婚と見なす通説は、一方的で客観性に欠ける[5]。
関ヶ原の戦いと最上陣
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐の軍を発するとこれに従い、7月25日には登坂勝乃が守る白石城を奪還した。家康が畿内を離れた隙をついて五奉行の石田三成らが毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵したため、下野国小山(現・栃木県)まで北上していた家康は西へ引き返す。翌月、家康は政宗に対して、岩出山転封時に没収され、この時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領土の自力回復を許す旨の書状(「百万
のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。これは政宗が南部利直領の和賀・稗貫・閉伊への侵攻許可を得るため、南部氏が西軍に通じているとしきりに家康に訴えていたことから、お墨付きを与えることで政宗が対上杉戦に集中するよう仕向けたものであった。
同年9月、関ヶ原の戦いが勃発。西軍の上杉家重臣直江兼続率いる軍が東軍の最上氏の領内に侵入すると(慶長出羽合戦)、東軍に属した政宗は、最上氏からの救援要請を受けて叔父・伊達政景率いる3,000の兵を派遣し、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した[注釈 4]。関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わり、直江兼続もまた最上義光に敗れて米沢に逃げ帰ると、政宗は自ら兵を率いて伊達・信夫郡奪還のため国見峠を越えて南進し、10月6日に福島城主本庄繁長の軍勢と衝突する。宮代表の野戦では威力偵察に出た大宝寺義勝(繁長の子)率いる上杉軍を破ったものの、続く福島城包囲戦では繁長の堅い守りに阻まれて攻城に失敗、さらに上杉軍の別働隊に補給線を断たれたため、翌日には北目城へと撤退した(後世の軍記物に見えるいわゆる松川の戦いのモデル)。
この後、翌年春頃まで幾度か福島城攻略のために出兵したが、結局は緒戦の失敗を取り戻せず、旧領6郡のうち奪還出来たのは陸奥国刈田郡2万石のみであった。加えて、政宗が南部領内で発生した和賀忠親による一揆を煽動し、白石宗直らに命じて忠親を支援するため南部領に4,000の兵を侵攻させていたことが発覚した(岩崎一揆)。この一件は最終的には不問に付されたものの、政宗が希望した恩賞の追加はことごとく却下され、領地は60万石となった(後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。
仙台開府と慶長遣欧使節
伊達政宗からローマ教皇に宛てられた書簡
慶長6年(1601年)には仙台城、仙台城下町の建設を始め、居城を移す。ここに、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。石高62万石は加賀・前田氏、薩摩・島津氏に次ぐ全国第3位である。徳川幕府からは松平の名字を与えられ「松平陸奥守」を称した[6]。
仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台の城下町は全面的な開発であるため、のべ100万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。
政宗は仙台藩とエスパーニャとの通商(太平洋貿易)を企図し、慶長18年(1613年)、仙台領内において、エスパーニャ国王・フェリペ3世の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によってガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造した。政宗は家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを外交使節に任命し、家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、エスパーニャ、およびローマへ派遣した(慶長遣欧使節)。
慶長8年(1603年)以降、幕臣との交際が多くなる。幕臣への接近は情報収集の一端であり、様々な贈答品に心を砕いたり、酒宴・歌会・茶会・能見物等に懸命であったりした[7]。
慶長18年(1613年)に高田城の普請のために越後国にいた政宗から愛姫に送った書状には、春秋の季節感や天然自然の草木、花鳥風月について、仏教の無常感を土台に語りかけている。『枕草子』や『徒然草』が引用され、『源氏物語』の「花宴」の一句で締めくくるなど、その文言は高尚である。夫婦仲が疎遠どころか、複雑な心象を伝える間柄であったことが分かる[8]。
大坂の陣
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(大坂の役)では大和口方面軍として布陣した。和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。その年の12月、将軍秀忠より伊予国宇和郡に領地を賜る。翌年、慶長20年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いで後藤基次らと戦った。基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。これに対し先鋒大将の水野勝成は政宗に真田隊への再攻撃を再三に渡り要請するが、政宗は弾薬の不足や兵の負傷などを理由にこれを悉く拒否し、最後は政宗自ら勝成の陣に赴き要請を断った。このため信繁は悠々と大坂城に引き返し「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」(「関東武者は100万あっても、男と呼べる者は誰一人として居ない」)と嘲笑したという。
なお、誉田村での戦闘中に政宗勢は水野家家中3人を味方討ちにし、水野家の馬を奪っているが、勝成は政宗の軍勢を待ち伏せにし兵を斬り殺して馬を奪い返した。しかし、これに政宗が異議を唱えることはなかった[9]。
一説によれば、翌5月7日の天王寺の戦いで政宗は船場口に進軍し、明石全登隊と交戦していた水野勝成勢の神保相茂隊約300人を味方討ちにしたという(6日の道明寺の戦いで発生したとする説もある)。神保隊は全滅し、相茂自身も討ち死にして遺臣が水野勝成らを通じて政宗に抗議するが、政宗は開き直り「神保隊が明石隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分した。伊達の軍法には敵味方の区別はない」と主張したとある(『薩藩旧記』巻六)。
この風聞は直後から様々な興味と憶測を生み、講談本(『難波戦記』)では後藤隊休息中の神保隊に有無を言わさずに銃撃を加えたとする説や、手柄を妬んでの味方討ちとする説も書かれている。ただし、政宗がこの事件について咎めを受けた記録は無く、幕府の記録(『寛政重修諸家譜』)にも「(神保相茂は)奮戦して死す」とのみ記述されており、幕府が政宗に配慮し抗議を黙殺した、あるいは水野家家中への味方討ちに尾ひれが付いた伝聞が広まった可能性などが考えられる。(詳細は神保相茂の項を参照)
戦後の論功行賞で伊予国の内で10万石が政宗の庶長子である伊達秀宗に与えられた(宇和島藩)。なおこの戦で、敵となった真田信繁の次男である真田守信、長宗我部盛親の姉妹である阿古姫とその息子・柴田朝意が伊達家に仕えている。
晩年
小室達作(初代)伊達政宗騎馬像(仙台市・仙台城本丸、1940年5月撮影)
小室達作(第2代)伊達政宗騎馬像(仙台市・仙台城本丸、2004年10月撮影)
柳原義達作「伊達政宗公平和像」(大崎市・岩出山城、2010年10月撮影)
世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、内高74万5千石相当(寛永惣検地)の農業生産高を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し
、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物を残した。さらに近江在住の技師・川村孫兵衛を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻から海路江戸へ米を移出する体制が整う。寛永9年(1632年)より仙台米が江戸に輸出され、最盛期には「今江戸三分一は奥州米なり」と『煙霞綺談』に記述されほどになる。
2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕えた。寛永12年に家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べると、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなった。家光は下城する政宗に護身用に10挺の火縄銃を与えた[10]。
健康に気を使う政宗だったが、寛永11年(1634年)頃から食事不振や嚥下に難を抱えるといった体調不良を訴え始めていた。寛永13年(1636年)4月18日、母義姫を弔う保春院の落慶式を終えた後、城下を散策した政宗は経ヶ峰に杖を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。そこが後の瑞鳳殿である[10]。2日後の20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化させ、宿泊した郡山では嚥下困難に嘔吐が伴い何も食べられなくなっていた。28日に江戸に入った頃には絶食状態が続いた上、腹に腫れが生じていた。病をおして参府した政宗に家光は、5月21日に伊達家上屋敷に赴き政宗を見舞った。政宗は行水して身を整え、家光を迎えた。しかしお目見え後に奥へ戻る時には杖を頼りに何度も休みながら進まざるをえなかった[10]。
5月24日卯の刻(午前6時)死去。享年70(満68歳没)。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている[10]。「伊達男」の名にふさわしく、臨終の際、妻子にも死に顔を見せない心意気であったという。5月26日には嫡男・伊達忠宗への遺領相続が許された。遺体は束帯姿で木棺に納められ、防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列により6月3日に仙台へ戻った。殉死者は家臣15名、陪臣5名。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発した。これは御三家以外で異例のことであった。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」。
人物・逸話
眼帯の由来
政宗の肖像において天然痘で失明した右目は白濁して見開いており、健全な左目はより大きく見開いている。政宗の生前の希望に従い右目を黒く描く肖像もある。各種の記録に目を覆った様子はない。 政宗役の俳優が演技時に右目を覆う慣習は昭和時代から行われており、古くは1942年の映画『獨眼龍政宗』において目の矢傷治療で白い包帯や刀鍔型をした眼帯が使われ、2016年のテレビドラマ『真田丸』では政宗を演じるのに必要な小道具として扱われている[11]。
「独眼竜」の由来
伊達政宗が「独眼龍」のあだなで呼ばれるのは、江戸時代後期の儒学者頼山陽の賦した漢詩にまで遡る[12]。山陽の没後、天保12年(1841年)に刊行された『山陽遺稿』に収められた「詠史絶句」15首のひとつに、政宗に題を採ったものがある。天保元年(1830年)の作とされている。
横槊英風独此公
肉生髀裏斂軍鋒
中原若未収雲雨
河北渾帰独眼龍
槊を横たふる英風独りこの公
肉髀裏に生じて軍鋒をおさむ
中原もしいまだ雲雨収まらずんば
河北すべて帰せん独眼龍
(出典)
伊藤靄谿注釈『山陽遺稿詩注釈』 書藝界、1985年
頼成一・伊藤吉三訳注『頼山陽詩抄』 岩波書店〈岩波文庫〉、1944年
「独眼龍」は、もともと中国の唐王朝末期、各地に割拠した軍閥の首領の一人で、その中でも軍事的に最強と謳われた李克用の綽名である。例えば『資治通鑑』巻第255に「諸将みなこれを畏る。克用一目微眇なり。時人、これを独眼龍と謂う」とある。ただし、漢字の「眇」には「片方の目が見えない」という意味と「一方の目が他方よりも小さい」という意味とがあり、李克用がどちらであったかははっきりしない。隻眼の伊達政宗をあえて李克用になぞらえたのは山陽の詩的独創に属する。
起句の「槊」は「ほこ(矛)」であり、魏の曹操が赤壁の戦いを前にして陣中で武器を小脇にはさんで詩を賦したという伝説に基づき、北宋の蘇軾が『前赤壁賦』で「釃酒臨江、横槊賦詩、固一世之雄也」と詠い、一代の英雄として讃えたことを踏まえる。曹操に匹敵するほどの文武両道に秀でた英雄は、日本では政宗だけだというのである。
承句は、同じく三国志の英雄劉備の「髀肉の嘆」の故事を踏まえたもので、そんな英雄政宗も平和の訪れとともに軍を収め、体がなまったことを嘆くようになったことをいう。
転句の「中原」は黄河中流域を指し、唐の首都長安・副都洛陽を含む地域であり、古代殷王朝・周王朝以来、中華文明の中心地として栄えた地である。当時は、李克用の終生の仇敵である軍閥朱全忠の支配下にあった。朱全忠はのちに唐王朝から帝位を奪い自らの王朝後梁を樹立する。ここでは政治・経済・文化の中心地として、日本の近畿地方の比喩となっている。「雲雨」は戦乱の比喩である。
結句の「河北」は現在の河北省の地ではなく、漠然と黄河の北側の地域をいい、李克用の本拠地晋陽(現在の山西省太原市)が中原に対して黄河の北方にあったことを指す。ここでは日本の東北地方の比喩である。中原の戦乱が終息しなければ、つまり、織田信長や羽柴秀吉による天下統一事業があれほど急速に進展しなかったならば、東北地方全域が政宗の支配下に入っていたに違いない、と山陽は政宗が“遅く生まれてきた”ことを惜しんでいるのである。
また、政宗が隻眼の行者・満海上人の生まれ変わりであるという伝説は、政宗の存命中の慶長末年の頃、遅くとも慶長19年(1614年)には知られていた[13]。
徳川家への忠誠
三代将軍家光は京都の二条城へと参上する際、御三家でも許されなかった紫の馬の総を伊達に与えた。政宗が病床についた際は、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、死の3日前には家光自らが見舞いに来た。政宗が亡くなると、父・秀忠が死んだ時よりも嘆き入り、江戸で7日、京都で3日の間殺生や遊興が禁止された。
1628年(寛永5年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、
のとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の1618年(元和4年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。
ヨーロッパでの名声
支倉常長はエスパーニャとの軍事同盟交渉の時、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。」と発言している。
支倉常長はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインのコリア・デル・リオには現地に留まった仙台藩士の末裔と推測される人たちが存在している。彼らは「日本」を意味する「ハポン」を姓として名乗っている[14]。
天下取りの野望
軍記物『東奥老子夜話』によれば、政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合を想定し、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたとされる(史料[注釈 5])。
趣向など
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料理が趣味。元々は兵糧開発が主眼であり、岩出山名物の凍り豆腐と納豆(ずんだ)は政宗の研究の末に開発されたものであった。仙台城下には味噌倉を建てていたが、味噌の大規模な生産体制が確立されたのはこれが最初といわれる。太平の世になると美食を極めることに目的を変えて料理研究を続けた。『政宗公御名語集』には「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という政宗の料理観が残されている。この金言は和・洋・中を問わず後世の多くの料理人に感銘を与え、伊達家御用蔵が母体となっている宮城調理製菓専門学校のほか、服部栄養専門学校などでも校訓に引用されている。こうした料理に対する政宗の情熱から、今日の仙台名物が政宗の考案によるものだとする説がある。ずんだ餅や笹かまぼこが代表例だが、笹かまぼこについては、宮城県水産試験場の資料では、江戸時代中期に生まれた物と書かれてある。
料理の他にも多くの趣味を持ち、晩年は一日たりとも無駄に過ごすことがなかったという。特に若年から習っていた能に傾倒しており、奥小姓を太鼓の名人に弟子入りさせたほか、自身も豊臣秀吉や徳川家光の前で太鼓を打つなどしている。政宗が晩年、能に使用した費用は年間3万石余に及んだという。
秀吉が吉野で歌会を開き武将達はそれぞれ詩歌を詠んだ時、政宗が最も和歌に精通し優れていた。「詩才に関して、司馬遼太郎は短編小説『馬上少年過ぐ』の中で、歴史上高名な武将のものとしては古代中国の曹操にも比肩すべきものとしており、政治家としての側面にはその詩心が反映されていないことも二人の共通点であるとしている。晩年の政宗が残した漢詩に『酔余口号』という作品がある。
馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何
(書き下し文)馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずんば是いかん/楽しまずして是を如何にせん
前半の三句は「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが」と解釈できるものの、最後の句は「楽しまずんば是いかん(これを楽しまずしてどうしようか)」あるいは「楽しまずして是を如何にせん(楽しいとは思えないのはどうしたことか)」と全く違う2通りの訓みと解釈ができてしまう。政宗自身がどちらともとれるように作った可能性もあるが、政宗の残した大きな謎となっている。
養生法が変わっていて、冬に炬燵の片側を開けさせていた。朝は早く目が覚めても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しないという拘りがあった。身体の健康を常に気遣っていた。
喫煙者で、毎日起床後・昼・睡眠前と、規則正しく3回煙草を吸っていた(当時の人々は煙草を薬として服用した)。遺品に、愛用の煙管(キセル)がある。 酒も大変好んでおり、仙台城に酒の醸造所を作らせていたほど味に拘っていた。当時の有名な杜氏達を招聘したり、人を派遣して醸造法を習わせたりといったこともしており、それらを示す一部の書状は現代にも現存している。 ただし、あまり酒が強くなかったらしく、二代将軍秀忠との面会の約束を二日酔いが原因で反故にしたり(当人は仮病を装った)、三代将軍家光の御前で酩酊し眠りこけたなど、酒に纏わる失敗談が多い。
伊達政宗五常訓
ウィキソースに伊達政宗五常訓の原文があります。
明治時代以降、伊達政宗の遺訓とされるものが俗説として流布している。
これらは幕末から明治にかけて水戸光圀、林子平などの遺訓とされ、伊達政宗の遺訓としては明治27年の『好古叢誌』第三編八の巻漫録「仙台黄門政宗卿遺訓」が初出だが、伊達氏に関連する史料の中にその根拠となるものは見当たらないという[15]。
その他
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伊達邦宗(政宗の直系子孫)が著した『伊達家史叢談』に、明治天皇が政宗を「武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いを馳せて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗の事である」と評したと記されている。
経ヶ峰歴史公園の「臥龍梅」は、昭和54年(1979年)の瑞鳳殿再建に際して若林城跡から移植したものである。政宗が大悲願寺13世海誉の弟子として在山していた弟・秀雄の元を訪れた時に、庭にあった白萩を気に入って所望し、かわりに臥龍梅を大悲願寺に贈っている(「追って曽掛に候へ共、折節に任せ、小袖壱重ね進め候。以上。態飛脚を以って申し入れ候。先度は参り、会面を遂げ本望に候。仍無心の申す事候へども、御庭の白萩一段見事に候き、所望致し候。先日は申し兼ね候て罷り過ぎ候。預
はば恭かるべく候。猶後音を期し候。 恐惶謹言 松平陸奥守 八月廿一日 花押 彼岸寺御同宿中」)。
明和7年(1770年)に仙台藩士・飯田道時が著した軍記物『伊達秘鑑』には、政宗の下には離間・扇動工作に従事した黒脛巾組という忍者集団がいたとしている。黒脛巾組関連の人物名には実在の伊達家臣の名が借用されているが、一級史料には黒脛巾組という名称や類似の集団の記述は見当たらない。
政宗の幼名にちなんだ梵天丸茄子という茄子がある。米沢市農協が中心となって窪田茄子と仙台長茄子を交配させて開発した品種で「病気に強く・品質が良い」と言われており、漬けると色鮮やかな青になる。米沢では夏の風物詩としてよく家庭などで作られる。
伊達政宗が描いたとみられる絵が宮城県塩釜市の旧家に保存されている[16]。
官位履歴
天正13年(1585年)閏8月 – 従五位下美作守に叙任。
天正14年(1586年) – 左京大夫に転任。
天正19年(1591年)3月 – 侍従に遷任し、越前守を兼任。羽柴の苗字を関白豊臣秀吉から授かる[3]。
慶長2年(1597年) – 従四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。越前守如元。
慶長13年(1608年)1月 – 陸奥守を兼任。越前守任替。松平の苗字を第2代将軍徳川秀忠より授かる[17]。
元和元年(1615年)閏6月19日 – 正四位下に昇叙し、参議に補任。ただし、参議は同年中に辞職。
寛永3年(1626年)8月19日 – 従三位権中納言に昇叙転任[注釈 6]。
明治34年(1901年)11月8日 – 贈正三位[18]。
大正7年(1918年)11月18日 – 贈従二位。
居城
伊達一族は昔からよく本拠地を移転しているが、政宗の時代は領国の拡大や豊臣・徳川政権との関係で最も移転が多い。
米沢城(山形県米沢市) – 天正12年(1584年)〜天正17年(1589年)
黒川城(福島県会津若松市) – 天正17年(1589年)〜天正18年(1590年)
米沢城 – 天正18年(1590年)〜天正19年(1591年)
岩出山城(宮城県大崎市) – 天正19年(1591年)〜慶長5年(1601年)
仙台城(宮城県仙台市青葉区) – 慶長5年(1601年)〜寛永4年(1627年)
若林城(宮城県仙台市若林区) – 寛永4年(1627年)〜寛永13年(1636年)
系譜
正室・愛姫と、少なくとも7人の側室がおり、五郎八姫など十男四女を儲けた。ただし、側室・子女の数は記録に残っている者のみで、存在が確認されている一男一女以外の落胤および側室が居た可能性もある。
正室:愛姫(田村清顕の娘。陽徳院)
五郎八姫 – 長女。松平忠輝室、忠輝改易後に離縁
伊達忠宗 – 二男。仙台藩第2代藩主
伊達宗綱 – 五男。岩ヶ崎伊達氏初代当主
伊達竹松丸 – 八男。早世
側室:飯坂の局(飯坂宗康の二女。松森御前、猫御前)
側室:新造の方(出自不詳。『飯坂盛衰記』では六郷伊賀守の娘(六郷政乗の姉妹)とするが、六郷氏側の系譜等には一切見えない。『寛政重修諸家譜』では上記の飯坂の局と同一人物とされるなど、史料によって記載内容の差異が大きく不明な点が多い)
伊達秀宗 – 長男。宇和島藩初代藩主
伊達宗清 – 三男。飯坂宗康養子。吉岡伊達氏当主
側室:祥光院(出自不詳)
伊達宗泰 – 四男。岩出山伊達氏初代当主
側室:天渓院(於山方)(柴田宗義の娘)
伊達宗信 – 六男。岩ヶ崎伊達氏第2代当主
伊達宗高 – 七男。田手宗実養子。村田伊達氏当主
牟宇姫 – 二女。石川宗敬室
側室:荘厳院(柴田信恒の娘)
亘理伊達宗実 – 九男。伊達成実養子。一門・亘理伊達氏第2代当主
側室:法性院(勝女姫) – 多田吉広の娘
岑姫 – 三女。涌谷伊達宗実室
伊達宗勝 – 十男。一関藩主
側室:本寿院(妙伴)(村上正重の娘)
千菊姫 – 四女。京極高国室
愛妾:香の前(高田治郎右衛門の娘。もと豊臣秀吉の愛妾だったが秀吉から拝領、のちに茂庭綱元に下げ渡される[19])
津多 – 落胤。系譜上の父は茂庭綱元。原田宗資室
亘理宗根 – 落胤。系譜上の父は茂庭綱元。亘理重宗婿養子、栗原郡高清水城主
この他にも、塙直之の娘などを側室に迎えていたとも伝わる。スペイン出身の側室・南樹の方(マリア)が居たとするのは山岡荘八の小説『徳川家康』における創作であり、史料上には存在しない。
家臣
伊達成実
石川昭光
留守政景
亘理元宗
亘理重宗
国分盛重
村田宗殖
小梁川盛宗
桑折宗長
石母田景頼
岩城政隆
片倉景綱
茂庭綱元
白石宗実
原田宗時
後藤信康
鈴木元信
屋代景頼
泉田重光
遠藤宗信
津田景康
大内定綱
猪苗代盛国
山岡重長
支倉常長
石田與純
川村重吉
浜田景隆
山口常成
中島宗求
信仰
師である臨済宗妙心寺派の高僧・虎哉宗乙の影響を受け、妙心寺塔頭・蟠桃院の大檀越となったほか、虎哉の勧めを受けて松島の円福寺を再興して瑞巌円福禅寺(瑞巌寺)と改称し、同寺は伊達氏の庇護の下、江戸時代を通じて繁栄した。
墓所等
瑞鳳殿に安置されている政宗の木像。普段、扉は閉じているが、政宗の命日(5月24日)など年に数回開帳され、木像を拝むことができる。
墓所は、仙台市青葉区霊屋下の瑞鳳殿(ずいほうでん)。その他、位牌が若林区荒町の昌傳庵と松島町の瑞巌寺と京都府京都市妙心寺塔頭蟠桃院にあり、神として青葉区青葉町の青葉神社に祀られている。また、供養墓が他の大名などと同様に高野山奥の院にある。
瑞鳳殿は政宗の死後、伊達忠宗によって寛永14年(1637年)10月に建立された。昭和6年(1931年)に旧国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)の戦災で焼失し、現在の瑞鳳殿は昭和54年(1979年)に仙台市により再建されたものである。
再建に先駆けて、昭和49年(1974年)には発掘調査が行われ、遺骨の学術的調査から身長は159.4cm(当時の平均的身長)であることや、 遺骸毛髪から血液型がB型であることが判明した。歯周病により上あごの左右の犬歯以外はすべて抜け落ちていた。天正17年(1589年)に米沢で落馬し、骨折した時のものと思われる、左腓骨の骨折の跡も見つかった[20]。また、副葬品として太刀、具足、蒔絵を施した硯箱、鉛筆、懐中日時計兼磁石、懐中鏡、煙管、銀製ペンダント、黄金製のロザリオなど、30余点が確認されている[21]。