煙管 人生を走り続ける人々へ。
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神無月の空は、すこんと突き抜けるよう青い。
冷たい風に巻き上げられた落ち葉が、カラカラと乾いた音を立てた。
背後から、荒々しい馬蹄の音が近づいてくる。
蹴散らされてはかなわないと、慌てて道の端に体を寄せ、駆け抜ける騎馬の侍を見送った。
御所に近いこの道では、珍しくもない光景だ。
「またなんぞ厄介ごとやろか」
私と同じようにして騎馬侍を見送っていた中年男性が、もうもうとあがった土埃に咳き込みながら呟く。
「あんさん知ってるか。こないだうち、兵庫に異人の船が押し寄せたんやで。またぞろ、港を開けぇて言うてきたらしい」
情報通を気取る男性は、どこぞの商家の番頭といった形(なり)をしている。
でも、その噂なら既に知っていた。
遊里の人間は耳が早い。私もその端くれとして例外ではないのだ。
先月半ば、フランス、アメリカ、イギリス、オランダの四カ国の軍艦が兵庫沖に現れ、棚上げされていた条約の勅許と兵庫港の開港を迫った。
下立売に新築された守護職屋敷周辺に、それまで以上に慌しく駕籠や馬が出入りするようになったのもその頃。
騎馬の慶喜さんを主とした一橋家の行列を頻々と目にしたのもその頃。
伊東さんからの誘いが来なくなり、それでいて秋斉さんが外出したまま深夜まで帰ってこなくなったのもその頃だ。
そして、梅鶯庵での逢瀬は三度に渡ってキャンセルされている。
私の反応がはかばかしくないからか、男性は、道の向こう側から歩み寄ってきた別の人と話し始めた。
「また諸式が高うなるで。長州はんがいてくれはったら、異人やら追い払うてくれはったやろに」
「いや、それはどうやろう。異人の大砲はえらいきついらしいやないか。それに、公方様は長州はんと戦するために来てはるんやろ」
「そないな場合とちゃうやろに。ほんまお侍のすることやら、わてらには迷惑なことばっかりやわ」
長州贔屓で徳川嫌い。
京の人の評価は、依然として変わらない。
そして、こうした噂話の最後は往々にして。
「しっ。徳川様の悪口言うたら、壬生の山犬に噛み付かれるで」
山犬とは、狼のこと。
壬生の山犬―――つまりは新選組への、恐れと嫌悪に混じった言葉で締めくくられるのだ。
土方さんは、近藤さんを司令官とする軍隊を作ろうとしている。
「法度」という名の苛烈な軍律を定め、寄せ集めの傭兵部隊の統率を計る彼が、規律を乱す隊士に下す処罰は、多くの場合、命をもって償わせるものだ。
土方さんは決して自分からそんな話はしてこないし、私に聞かせたくないと思っているのだろうけれど、哀しいかな、それらの噂もまた、島原には残らず入ってきてしまうのだった。
この時代に来てから、私は知らんぷりがうまくなった。
その対象は、土方さんの纏う「死」」の気配だけではない。
「お帰りやす、さくらはん」
「久しぶりだねえ、さくら」
戻った置屋で迎えてくれた二人―――秋斉さんと慶喜さんの不可解な関係もまた、私は直視しないようにしている。多分こうなのでは・・・という推測はあれど、掘り下げて考えると私では受け止め切れない、二人だけの闇が潜んでいる気がするからだ。
受け止めきれないものに手をだすべきではない、それは山南さんとのことで痛感していた。
置屋を訪れるたびにやつれていく様に見えた慶喜さんは、この日は晴れやかな顔をしていて。
こっちへおいでと、火鉢の傍へ私を招く声にも張りがあった。
「外国船は帰ってくれたんですか?」
尋ねた私に、笑みを湛えていた慶喜さんの双眸がほんの少し細くなる。
慶喜さんが答えるより先に、秋斉さんがすっと立ち上がった。
「わては、ちと大工町に用事があるさかい、出てきます」
西本願寺近くの町名を告げ、羽織紐を整える。
部屋を出しなに肩越し慶喜さんに一瞥をくれ、「ほどほどに」と言い置いて障子を閉めた。
火鉢にはまだ新しい炭が燃え、かけられた鉄瓶からは盛んに湯気が上がっている。
おかげで締め切られた部屋は暖かい。
煙管に煙草を詰めなおしている慶喜さんは、飄々とした表情で、口元には笑みを刻んでいる。
なのに、私は居心地の悪さを感じて、正座した足をもぞりと動かした。
秋斉さんが、慶喜さんと私を置き去りにする時は少なからず緊張を強いられる。
思い起こせば、携帯を突き出された時も、天狗党討伐の前に膝枕をねだられた時も、そして、カメラが見つかったと言われた時も、秋斉さんは今みたいに出て行った。
(今日はなんだろう・・・・・・)
用件を切り出されるのを待つ私の落ち着かなさをよそに、慶喜さんはゆったりと煙管をふかしている。
鉄瓶の湯気と交じり合い、天井へとのぼっていく煙。
仕方なく、鉄瓶に差し水をしたり、炭の様子を見たりし始めたところへ、慶喜さんはようやく口を開いた。
「外国船はね、帰ったよ。条約勅許が下りたからね」
「兵庫開港ですか?」
「いや。代わりに横浜鎖港はなしだ」
それなら、物価は当分下がらない。
物と人の動きのない国が栄えないことは承知している私でも、溜息をつきたくなるほど、インフレは進んでいる。
「豊後と伊豆も辞めさせたし、今後はもっとやりやすくなる」
豊後と伊豆というのが、誰かの官名だということはわかっても、誰のことやらさっぱりだ。私が知っているのは、「肥後守」が会津の殿様で、「越中守」がその弟で所司代の桑名藩主だということくらい。この二人の名は、新選組屯所でよく耳にする。
でも、慶喜さんは私の理解が及ぼうが及ぶまいが、どうでもいいようで。
久しぶりに輝きを取り戻した双眸を火鉢へと据え、熱のこもった口調で一人ごちた。
「公儀の人事に介入させるのはどうかと思ったけど、帝は俺を頼りにして下さっている。肥後や越中とも足並みを揃えて、公武一和に専心しなくてはね」
住む世界の違い過ぎる話で、うまい喩えが見つからないのだけれど、出走を前にした競走馬みたいに、慶喜さんからは抑えようにも抑えきれない昂ぶりを感じる。
詳しいことはわからないままながら、彼が大仕事を成し遂げたらしいことは理解できた。
『公武一和』―――つまり幕府と朝廷が手を取り合って国を治める・・・その考えは、近藤さん、ひいては土方さんの目指す姿だ。
我ながら近視的だとは思うものの、大切な人の働きが報われることを嬉しく感じるのは仕方のないことだろう。
「頑張ってくださいね」と微笑んだ私に、慶喜さんも晴れやかに笑って頷いた。
ただ、私には気がかりなことが一つある。
何も協力できないのにあれこれ訊ねるのは反則だと思うから、今まで慶喜さんに政治向きの質問をすることは控えていたのだけど。
「長州征伐はどうなりますか」
土方さんは、戦に行くのか。それとも行かずに済むのか。
できたら、戦など起こらない方がいい。そもそも、今回の長州征伐は、大儀なき戦との批判もよく聞く。
慶喜さんは私の質問に即答はせず、小腹が空いたなと呟いて、火鉢の引き出しに入れてある餅を二つと餅網を取り出した。
「私が焼きますよ?」
「いや、俺が。好きなんだよ、餅を焼くの」
自ら餅を焼く大名なんて、いるだろうか。やっぱり、慶喜さんは変わり者だ。
質問には答えたくないのだろうと思ったけれど、火鉢の餅が香ばしい匂いが漂わせ始めた頃、唐突に返事がきた。
「長州とは一戦交えねばなるまいね」
火箸でひっくり返された餅には、おいしそうな焦げ目がついている。
「今、内乱を起こしている場合でないのは明白だから、なんとか回避できないかと模索はしているよ。あちらの出方次第というところだけど、前年のようにはいかなんじゃないかなあ。なんせ今回あちらには・・・・・・・」
餅の焼け具合を確かめていた慶喜さんの眉が寄り、薄い唇が苦い笑みを形づくる。
「高杉がいるんだもの」
―――ため息が出た。一度目の征長の時のように、ただ頭を下げて嵐をやり過ごす・・・高杉さんがそんな選択をするとは、到底思えない。
暗澹(あんたん)とした気持ちが広がる中、慶喜さんは飄然と餅を焼き続けている。
「新選組の伊東というのは、どんな男だい?」
それは、何気ない調子で発された言葉だった。
何気なさ過ぎて、先ほどの話の続きかと思ったとほどだ。
面食らって言葉に詰まった私だったけれど、すぐにおかしさがこみ上げてくる。
「ちょっと強引なところもありますが、真っ直ぐで思いやりのある方ですよ」
慶喜さんは私の言葉を、餅を見つめながら聞き、小さく「そう」と頷いた。
「秋斉さんとは、友としてお付き合いしたいっておっしゃってました」
少し考えて重ねた言葉に、慶喜さんの眼差しがふっと甘くなる。
そして彼はもう一度、「そう」と呟いた。
「それを聞きたくて、お忙しい中いらっしゃったんですね」
私はただ、秋斉さんに向けられる慶喜さんの気持ちが嬉しかっただけで。
揶揄するつもりはさらさらなかったのだ。
なのに。
「そんなんじゃあないよ。俺はさくらがあれからどうしてるか気になって。また土方君に泣かされてないか心配だからね。お熱いようでなによりだけど」
火箸を振って言い訳をする慶喜さんが可笑しかった。
もちろん、私の心配をしてくれていたのも本当のことには違いないのだろうけども。
笑みを零して返事をしない私に、慶喜さんは、感じが悪いなあとつむじを曲げた。
頬を膨らませたその様が、火鉢のおもちにそっくりで、私は余計に笑みを深くして。
頭の隅でもう一度思った。
戦なんて、起こらなければいいのに――――――。
煙管 ヒューマンCITY
凍りついて動けないでいる私に、慶喜さんが開けないのかと問うてくる。
この時代に紛れこんで、丸二年。
たった二年。でも、あまりにも濃厚な二年だった。
現代にいる時には想像もできなかった出来事の連続で、その時々必死で乗り越えてきた。
異物なりに人との繋がりもでき、居場所も得た。
目の前に押しだされた紫色の風呂敷包みは、私が懸命に下ろした根を断ち切る強さで訴えかけてくる。
帰れ、帰れと。
子供を産めない女など、いずれは土方さんの重荷になる。
彼は最早農家の末っ子ではなく、二百人近い手下(てか)を従える新選組の副長なのだから。
いずれはしかるべき待遇で幕府に取りたてられ、家庭を持って血を繋いでいく。
ここは、現代とは違う。個人より家が重視される時代だ。彼の隣にいるべきは、幽霊みたいな存在の私ではなく、彼の「家」に認められた許嫁なのだろう。
彼の幸せを願うなら、今のうちに身を引くことが正しいのかもしれない。
煙管をくるくるとまわし始めた慶喜さんの視線に晒されながら、私は震える手を風呂敷へと伸ばした。
けれど、どうしても。
結び目を解くことはどうしても出来なくて。
(帰りたくない―――――っ)
土方さんとのことをなかったことにするなんて嫌だ。
このまま黙って帰るなんて嫌だ。
私のいない貴方の幸せを願えるほど、綺麗になんかなれない。
「・・・ゃっ・・・だ・・・・・」
包みに縋って嗚咽を噛み殺した私の髪を、伸びてきた慶喜さんの手がそっと撫でた。
風呂敷の結び目を握りしめた手も同じように撫でられて、のろのろと体を起こす。
膝の上に戻した手にはくっきりと爪の痕がついていた。
私にとっては強固だった結び目を、慶喜さんは難なく解いて行く。
怖れおののきながら、それでも目を逸らせずにいる包みの中から現れたのは、ぼんやりとした記憶の中で、やけに鮮明なあの夏の日、黒い服を着た長身の男から向けられた木の箱ではなかった。
扇の意匠の金蒔絵が施された黒い重箱。
取り外された蓋の中は、色とりどりの生菓子が詰められている。
「ごめんよ、意地悪をしてしまった」
堪えていた涙がぽろりと落ちた。
酷い冗談だと詰る気持ちより、安堵の方がずっと強くて。
「でも、答えはでたようだね」
再び煙管を咥えて火をつけた慶喜さんが、煙の輪をぽかりと吐きだす。
「意地悪ついでに言うと、俺なら子の産めない女と添うわけにはいかない。でも、俺は土方君じゃないしね。土方君も、一橋の当主じゃない。一人相撲はいくらとっても勝負はつかない。そうだろう?」
本人と話し合うよう言外に促され、私は「はい」と小さく応えた。
三十路手前の年増をつかまえて「いい子だ」と笑った慶喜さんは、重箱の中から菓子を一つ摘まみあげ、私の口元に差し出してきた。
仕方なく一口かじり舌の上に広がった上品な甘さに、以前同じように秋斉さんから口へと入れられた金平糖の甘みが甦る。
これも、あれも、どちらも同じ。「情」の甘みだと思った。
また涙が溢れかけ、慌てて瞼を強く押さえる。
「土方君がなんて言うかわからないけどさ。お前の欲しい答えじゃなければ・・・・・・」
途中で切れた言葉に誘われ視線をやれば、慶喜さんは帯に差してあった扇子を抜き取って。
「もっと相応しい男に心当たりがあるよ」と、意味ありげに白い地紙を広げて見せた。
煙管地獄へようこそ
息子が助六を演じるかもしれない日を