煙管命!
煙管は20年前からある安物の幻想に過ぎない
甘夏だったか何だか、大きな柑橘系をいただいたので、これで小粋を加湿してみた。
意外としっかり加湿できた。
よく言われることだけど、舌のピリピリが減りましたね。
タバコのアルカリ性を、柑橘系の酸が中和するとか何とか。
まろやかな喫味になった。
ちょっと青臭くなった気もするな。
パイプタバコの場合、飲み物によってタバコのアルカリを弱めるんだけど、
煙管の場合、飲んでる間もなく吸い終わるので、こういう工夫は考えた方がいいかもね。
アルファギークも知らない煙管の秘密
数日ぶりの晴天に、庭の紫陽花がひと際鮮やかだ。
けれど、当然のことながら私の心はそうはいかなくて。
昨夜帰りがけに降り始めた雨が、今も胸の中を湿らせている。
「おーい、さーくーらー」
呆れ果てたような声に、意識を引き戻された。
はっとして目をやれば、足を崩した慶喜さんの前に並べられたお膳は空になっていた。
「あ、おかわりは・・・・・・」
「もう十分。ごちそうさま」
「じゃあ、お茶を」
それも結構と断られ、申し訳なさに身を縮める。
去年の末、天狗党討伐の前に現れて以来、ずっと御無沙汰だった慶喜さんが豚肉の味噌漬けを手土産に現れたのが昼六つ。
パン粉の代わりにすった高野豆腐を衣にしたトンカツもどきをメインに据えて、豚肉づくしのお膳を整えたのが半刻ほど前だ。
秋斉さんは置屋の用事でどうしても出かけねばならず、私は慶喜さんと二人きり、秋斉さんの部屋に腰を落ち着けた彼の給仕をしていた。
天狗党の最期は、悲惨なものだったと聞く。 福井だったか敦賀だったか、北陸の藩に預けられた彼らは、にわか牢獄の鰊蔵にすし詰めにされた揚句、尊厳もなにもなく屠殺される家畜のように首をはねられた。慶喜さんの恩人だと言うトップの人は、女子供に至るまで処罰されたらしく、武家の内輪揉めだと冷ややかな目を向けていた角屋の上客の旦那衆ですら、「むごいことや」と囁き合った。
その処置について、慶喜さんは四方八方から責められていることを秋斉さんに聞き、慶喜さんの訪問を受けたら精一杯のおもてなしに努めよう――そう決めていたのだけど。 どうにもタイミングが悪かった。 昨日までなら平気だったのに。
「・・・何があったんだい」
煙管に煙草をつめながらの問いかけに、反射的に首を振る。 慶喜さんは何も言わずに煙管に火をつけふかし始めた。 考えの読めない表情のまま眺めまわされることに落ち着かず、つい視線をそらしてしまう。
「例の件の後、一旦は落ち着いたようだと聞いていたんだけどね。昨夜、角屋から帰ってからはずっとそんな風らしいじゃないか」
土方さんに許婚がいる―――永倉さんが漏らした言葉の衝撃から立ち直れないまま、どの道をどう通って辿りついたものか、随分時間をかけて戻った置屋で出迎えてくれた秋斉さんは、私の顔を見てはっきりと眉をひそめた。
ごくごく薄いそれでも完璧な形をした秋斉さんの唇が何か言葉を紡ぐ前に、平気ですと口走った私に、眉の力がふっと萎える。
そうかと応えた声の暗さに、ぐりぐりと胸を抉られた。
甦った痛みに襟元を押さえた私を流し見て、慶喜さんが細くゆっくり煙を吐き出す。
「さくらはさ、どうして秋斉に頼らないんだい?あいつは結構頼りになる男だと思うんだけど」
「頼りにしてます。でも、頼ってはいけないこともあると思うので・・・・・・」
私が秋斉さんを頼りにしてないなんてとんでもない。日常生活のあらゆることで彼を頼りにしているし、実際何度も何度も助けてもらっている。
でも、土方さんのことはどうしても相談しづらいのが現状だった。
秋斉さんと私は、細い細い針金が張り巡らされた空間に佇んでいる。
何事もなく過ごしている時は意識せずにいられるそれが、厳然とそこにあること、触れればたちまち怪我をすることを、私たちは二人とも気づきながら知らないふりを続けてきた。
そのせいで湧いて来る罪悪感は消えないし、いっそここを出て梅鶯庵で暮らす方が潔いのではないかとも思う。
でも、ここを出ることは、針金の存在を顕かにすることだ。姿を顕した針金から自分だけ脱け出た後のことを考えると、決断できずにいる。
「さくらは男心に鈍いのかと思っていたけど、そうでもないみたいだね」
また煙を吐き出して、慶喜さんはそんなことを言う。
「お前は怖いくらいに人を見ているものね」
その言葉、そっくりそのままお返ししたい。この時代に来てから、何も言っていないのに内心を悟られることが何度あったろう。慶喜さんだけではない。秋斉さんや土方さんはもちろんのこと、山崎さんや時には原田さんにまで。幕末男、恐るべし。
「秋斉に言いにくくても、俺ならどうだい?もちろん、秋斉には内緒にしてあげる」
煙管を片手にぐいと身を乗り出し、俯けた私の視線を掬うように覗きこんで、慶喜さんは「損はさせないよ」と笑う。
いつもながらの軽い調子と揺れる煙管に誘われて、私は重い口を開いた。
一晩ぐるぐる考え続け、結局出すことのできなかった答え。
でも、いい加減私も理解している。答えはいつだって自分の中にあるのだ。悩んでこねくりまわしてぐちゃぐちゃに絡まったものを口に出すことを躊躇うのは、話した相手が映し出す自分と向き合うのが怖いから。
怖がっていては解決しないことも、もう知っている。
自分の姿を映す鏡として、慶喜さんは最適の人に思えた。
「慶喜さんは、お子さんがいらっしゃいますか」
予想外の言葉だったのだろう。丁度煙管を口に運んだところだった慶喜さんが小さく噎せた。
藪から棒になんの話だという表情をしながらも、いいやと首を振って答えてくれる。
「正室との間に女の子が生まれたんだけどね。残念ながら育たなかった」
「そうですか・・・・・・」
「そんな顔をしなくてもいいよ。子供が育たないのは珍しい話じゃあない。大名も民草も同じことさ。ただ、いないままでは済ませられないのが武士ってもんだから、お家大事な上にいくほど、妾だ側室だと厄介ごとを抱え込・・・・・・」
言いかけて、慶喜さんは不意に口を噤(つぐ)んだ。煙草盆に煙管を置いて、まじまじと見つめてくる。
「まさか、子供が?」
「いえ、私は子供を産めない体です」
胸の中に居座り続けていたもやもやが、口にしたことでどすんときた。
どんなにどんなに望んでも愛する人の子を宿せない、そのことがどれ程の痛みを伴うのか、現代にいた頃は考えもしなかったのに。
慶喜さんは黙り込み、胡坐をかいた膝を長い指でとんとんと叩き始めた。貴公子然とした風貌の慶喜さんではあるけれど、その手は節が張った無骨なものだ。白くて優美な秋斉さんとは趣の違う手なのに、爪の形だ
けが奇妙に似ていた。
ツイーッツイッーと高く鳴く声に目を転じれば、庭先を番(つが)いの燕が飛び回っている。ああして餌を探し、ヒナ
待つ巣に帰るのだろう。
「お前に子供ができないから、別に女を作るとでも言い出したかい」
「いえ。故郷に許嫁がいるそうです」
慶喜さんの、内心を悟らせない平坦な声での問いかけとは逆に、答える私の声はねばついて重く喉に絡みつく。
慶喜さんが手を伸ばし、火のついたままだった煙管を煙草盆に打ち付けた。ささくれた私の心そのままの鋭く荒い音に、驚いた燕が飛び去っていく。
「さくら」
名を呼ばれ、慶喜さんへと視線を戻した。許嫁がいるのも仕方ないと諭されるのか、はたまた土方さんへの苦言が吐かれるのか。答えを待って見つめた慶喜さんの唇からは、考えもしなかった言葉が飛び出した。
慶喜さんが持参した、四角い風呂敷包み。食事の後に渡すと言われていた「お楽しみ」であるそれを引き寄せ、慶喜さんはこう言ったのだ。
「見つかったんだよ、例のカメラ」