描写は、生まれた山を忘れません。
煌びやかで短かったとあるスタアの生涯
1895年イタリアに生まれ、渡米後ボールルーム・ダンサーから端役の俳優へ。そこで大女優のアラ・ナジモヴァに気に入られて彼女の相手役に大抜擢、瞬く間に女性の心を捉え、アメリカのセックス・シンボルに・・・幸運を運んでくる女たちに支えられたヴァレンティノの生涯。
wikiによれば、ヴァレンティノが31歳で亡くなった時、葬儀は10万人のファンが詰めかける騒動に、後追い自殺も出たのだとか。
一方で、重婚による逮捕歴やマスコミのバッシングなど、毀誉褒貶の激しい人でもあったようです。
ケン・ラッセルが監督をつとめた本作では、『華麗なるギャッツビー』と同じくローリング20’sのアメリカはハリウッドを舞台に、まるで時代を象徴するように一瞬燦然と輝き、燃え尽きた、ヴァレンティノの半生を描いていきます。1977年の作品。
伝説のバレエ・ダンサー、ルドルフ・ヌレエフがヴァレンティノ役
(ヴァレンティノとニジンスキーのタンゴ・シーン)
この映画が凄いのは、あの世界的バレエ・ダンサーのルドルフ・ヌレエフが、ヴァレンティノを演じていること。(ヌレエフについては先月記事にした彼の伝記映画の記事を参照してください。)
ヌレエフの先人で彼と並び称される偉大なバレエ・ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーがヴァレンティノにタンゴを教えたという「伝説」にヒントを得たのか、本作ではヴァレンティノの友人としてニジンスキー(勿論本人ではありません)が登場します。
当初ヌレエフがオファーを受けたのはニジンスキー役のほう。ところがケン・ラッセルの気がかわり、主役のヴァレンティノのほうを演じてみないかということになったようです。
ヌレエフは、
「ホモセクシャルを演じるのは難しく、才能のない人間を演じるのは殆ど不可能です」
と難色を示したのだとか。
しかし、ケン・ラッセルの熱意にほだされたのか、結果的に彼はヴァレンティノ役を引き受けています。
ヌレエフの言う通り、彼が演じると才能がない男には見えない・・・いや、実際はヴァレンティノは曲がりなりにも大スターだったわけですから、華もあれば才能もあったんじゃないかと思うわけですが。
ただ、ヌレエフ版ヴァレンティノの「才気が滲み出てしまう難点」を緩和しているのが、本作のシニカルかつコミカルなトーン。
『ホワイト・クロウ』のヌレエフは気性の激しい天才、彼の登場シーンはいつも空気が張つめていただけに、本作でごく自然に可笑しみを振りまいているヌレエフの姿に、役者としての彼の思いがけない引き出しの多さを見せつけられた感がありました。
ジゴロ体質がもたらした幸運
(極端に占い好きな二度目の妻に振り回されるヴァレンティノ)
実際のヴァレンティノはどうだったのか詳しいことは分かりませんが、少なくとも映画のヴァレンティノは節目節目で女性に引き上げられていくジゴロ体質。
まずニューヨークのダンス教室で闇社会の顔役の妻といい仲になり、亭主にバレて修羅場になった後はダンサーの女とロスへ、そこで付き合い始めた女優のツテで映画出演、さらに女性プロデューサーの眼にとまり、大女優に気に入られ、資産家令嬢の女性美術監督と結婚・・・と、次々に彼を盛り立てる女が現れ、その都度ビッグになっていきます。
そしてそこに、大女優に逆らえないハリウッドの映画会社や、ヴァレンティノの女性人気に目をつけ広告塔にしようとする企業が絡んでくる。
ヴァレンティノ自身は周囲に流されているうちに、当世一のセックス・シンボルに祀り上げられた体。
これがケン・ラッセルのヴァレンティノ観・・・結構辛辣ですね。
ただ、コミカルで突き放したトーンが貫かれているせいか、さらっと眺めることができます。
劇中で、ヴァレンティノにはゲイだという噂があったということになっているんですが、それにしては女性と2度結婚+1度婚約しているし、人生の節目節目には必ず男ではなく女がいる・・・不思議です。
ゲイだという噂が本当だったとしたら、ヴァレンティノの素顔には本作には描かれなかった部分が多々あるのかもしれません。
面白いのは、ヴァレンティノの周囲には何故かレズビアンが多いということ。
ヴァレンティノと2度目の妻ナターシャの関係に嫉妬して嫌がらせを仕組んでくる女優ナジモヴァも、ヴァレンティノを奪われたくないのかと思いきや、実は狙いはナターシャのほう。
ヴァレンティノの葬儀で再会したナジモヴァとナターシャが、結婚行進曲をBGMに手に手をとって去っていく(葬式にですよ!)・・・なんてシニカルな描写も。
ナジモヴァがレズビアンだったのは事実のようですが、ケン・ラッセルはナジモヴァ・ヴァレンティノ・ナターシャの三角関係に何かドラマ性を感じていたみたいですね。
違う意味での「肉体派」
セックス・シンボルというヴァレンティノの位置づけにふさわしく、濡れ場も多い本作。スチール画像にもあるように、ヌレエフが脱ぐシーンが多々あります。
当初ヴァレンティノ役には同じイタリア系のアル・パチーノを、という話もあったようなんですが、この作品を観てしまうと、それは絶対考えられなくなります。
というのは、ヌレエフのカラダがあまりにも美しいから。
バレエってここまで美しい筋肉、美しい姿勢を作り出すものかと・・・彼の容姿は素晴らしくスクリーンに映えるし、彼の起用によって最高に絵になるダンスシーンをふんだんに盛り込めたことで、20年代のハリウッドらしい華やかさもグンと加わった気がします。
ヌレエフといえども本作の中ではヴァレンティノ、さすがにバレエは披露できませんが、ヌレエフが好んで演じていたニジンスキー作の『牧神の午後』のオマージュ・シーンがあるのはヌレエフ目当てで観た人への嬉しいサービス。
ヌ
レエフが牛柄に体をペイントして葡萄を持ち、ニンフに扮した女たちと一緒にカメラの前でポーズを取るというもので、彼らがコスプレ写真撮影を楽しんでいるのを眺める形で、『牧神の午後』のエッセンスを堪能できます。
(ヴァレンティノの『牧神の午後』ごっこ)
ヴァレンティノはその肉体で女性を魅了していくセックス・シンボルという意味で「肉体派」の部類に入ると思うんですが、ヌレエフも肉体で芸術を表現するバレエ・ダンサーという意味では「肉体派」。
そう言えば、ヌレエフも、亡命を助けたクララ・セインといい、さまざまな場面で女性に救われた人なんですよね。
全く重なるところがないように見えた2人にも意外に共通点があったんですね。
それにつけても、どうしてもヌレエフにヴァレンティノを演じさせたいとケン・ラッセルに思わせたものは何だったのか・・・この映画を観ると、思いつきそうで思いつかない、素晴らしいキャスティングに思えます。
美女に囲まれる生活も富も名声も手に入れたヴァレンティノを、ケン・ラッセルは、本当はそんなものよりオレンジ農園を買い、そこでのんびり暮らすのが夢だった男として描いています。
もしかしたら、ケン・ラッセルには、やはり文字通り全てを手にしたヌレエフにも、「オレンジ農園」があるように見えていたのかも・・・
それは亡命という形で捨てざるをえなかった故国だったかもしれないし、あるいは何か別の、名を成し財を成した人には逆に叶えられない、ささやかな夢だったのかもしれないですね。
描写 色は、ココロを動かすチカラ
煌びやかで短かったとあるスタアの生涯
1895年イタリアに生まれ、渡米後ボールルーム・ダンサーから端役の俳優へ。そこで大女優のアラ・ナジモヴァに気に入られて彼女の相手役に大抜擢、瞬く間に女性の心を捉え、アメリカのセックス・シンボルに・・・幸運を運んでくる女たちに支えられたヴァレンティノの生涯。
wikiによれば、ヴァレンティノが31歳で亡くなった時、葬儀は10万人のファンが詰めかける騒動に、後追い自殺も出たのだとか。
一方で、重婚による逮捕歴やマスコミのバッシングなど、毀誉褒貶の激しい人でもあったようです。
ケン・ラッセルが監督をつとめた本作では、『華麗なるギャッツビー』と同じくローリング20’sのアメリカはハリウッドを舞台に、まるで時代を象徴するように一瞬燦然と輝き、燃え尽きた、ヴァレンティノの半生を描いていきます。1977年の作品。
伝説のバレエ・ダンサー、ルドルフ・ヌレエフがヴァレンティノ役
(ヴァレンティノとニジンスキーのタンゴ・シーン)
この映画が凄いのは、あの世界的バレエ・ダンサーのルドルフ・ヌレエフが、ヴァレンティノを演じていること。(ヌレエフについては先月記事にした彼の伝記映画の記事を参照してください。)
ヌレエフの先人で彼と並び称される偉大なバレエ・ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーがヴァレンティノにタンゴを教えたという「伝説」にヒントを得たのか、本作ではヴァレンティノの友人としてニジンスキー(勿論本人ではありません)が登場します。
当初ヌレエフがオファーを受けたのはニジンスキー役のほう。ところがケン・ラッセルの気がかわり、主役のヴァレンティノのほうを演じてみないかということになったようです。
ヌレエフは、
「ホモセクシャルを演じるのは難しく、才能のない人間を演じるのは殆ど不可能です」
と難色を示したのだとか。
しかし、ケン・ラッセルの熱意にほだされたのか、結果的に彼はヴァレンティノ役を引き受けています。
ヌレエフの言う通り、彼が演じると才能がない男には見えない・・・いや、実際はヴァレンティノは曲がりなりにも大スターだったわけですから、華もあれば才能もあったんじゃないかと思うわけですが。
ただ、ヌレエフ版ヴァレンティノの「才気が滲み出てしまう難点」を緩和しているのが、本作のシニカルかつコミカルなトーン。
『ホワイト・クロウ』のヌレエフは気性の激しい天才、彼の登場シーンはいつも空気が張つめていただけに、本作でごく自然に可笑しみを振りまいているヌレエフの姿に、役者としての彼の思いがけない引き出しの多さを見せつけられた感がありました。
ジゴロ体質がもたらした幸運
(極端に占い好きな二度目の妻に振り回されるヴァレンティノ)
実際のヴァレンティノはどうだったのか詳しいことは分かりませんが、少なくとも映画のヴァレンティノは節目節目で女性に引き上げられていくジゴロ体質。
まずニューヨークのダンス教室で闇社会の顔役の妻といい仲になり、亭主にバレて修羅場になった後はダンサーの女とロスへ、そこで付き合い始めた女優のツテで映画出演、さらに女性プロデューサーの眼にとまり、大女優に気に入られ、資産家令嬢の女性美術監督と結婚・・・と、次々に彼を盛り立てる女が現れ、その都度ビッグになっていきます。
そしてそこに、大女優に逆らえないハリウッドの映画会社や、ヴァレンティノの女性人気に目をつけ広告塔にしようとする企業が絡んでくる。
ヴァレンティノ自身は周囲に流されているうちに、当世一のセックス・シンボルに祀り上げられた体。
これがケン・ラッセルのヴァレンティノ観・・・結構辛辣ですね。
ただ、コミカルで突き放したトーンが貫かれているせいか、さらっと眺めることができます。
劇中で、ヴァレンティノにはゲイだという噂があったということになっているんですが、それにしては女性と2度結婚+1度婚約しているし、人生の節目節目には必ず男ではなく女がいる・・・不思議です。
ゲイだという噂が本当だったとしたら、ヴァレンティノの素顔には本作には描かれなかった部分が多々あるのかもしれません。
面白いのは、ヴァレンティノの周囲には何故かレズビアンが多いということ。
ヴァレンティノと2度目の妻ナターシャの関係に嫉妬して嫌がらせを仕組んでくる女優ナジモヴァも、ヴァレンティノを奪われたくないのかと思いきや、実は狙いはナターシャのほう。
ヴァレンティノの葬儀で再会したナジモヴァとナターシャが、結婚行進曲をBGMに手に手をとって去っていく(葬式にですよ!)・・・なんてシニカルな描写も。
ナジモヴァがレズビアンだったのは事実のようですが、ケン・ラッセルはナジモヴァ・ヴァレンティノ・ナターシャの三角関係に何かドラマ性を感じていたみたいですね。
違う意味での「肉体派」
セックス・シンボルというヴァレンティノの位置づけにふさわしく、濡れ場も多い本作。スチール画像にもあるように、ヌレエフが脱ぐシーンが多々あります。
当初ヴァレンティノ役には同じイタリア系のアル・パチーノを、という話もあったようなんですが、この作品を観てしまうと、それは絶対考えられなくなります。
というのは、ヌレエフのカラダがあまりにも美しいから。
バレエってここまで美しい筋肉、美しい姿勢を作り出すものかと・・・彼の容姿は素晴らしくスクリーンに映えるし、彼の起用によって最高に絵になるダンスシーンをふんだんに盛り込めたことで、20年代のハリウッドらしい華やかさもグンと加わった気がします。
ヌレエフといえども本作の中ではヴァレンティノ、さすがにバレエは披露できませんが、ヌレエフが好んで演じていたニジンスキー作の『牧神の午後』のオマージュ・シーンがあるのはヌレエフ目当てで観た人への嬉しいサービス。
ヌ
レエフが牛柄に体をペイントして葡萄を持ち、ニンフに扮した女たちと一緒にカメラの前でポーズを取るというもので、彼らがコスプレ写真撮影を楽しんでいるのを眺める形で、『牧神の午後』のエッセンスを堪能できます。
(ヴァレンティノの『牧神の午後』ごっこ)
ヴァレンティノはその肉体で女性を魅了していくセックス・シンボルという意味で「肉体派」の部類に入ると思うんですが、ヌレエフも肉体で芸術を表現するバレエ・ダンサーという意味では「肉体派」。
そう言えば、ヌレエフも、亡命を助けたクララ・セインといい、さまざまな場面で女性に救われた人なんですよね。
全く重なるところがないように見えた2人にも意外に共通点があったんですね。
それにつけても、どうしてもヌレエフにヴァレンティノを演じさせたいとケン・ラッセルに思わせたものは何だったのか・・・この映画を観ると、思いつきそうで思いつかない、素晴らしいキャスティングに思えます。
美女に囲まれる生活も富も名声も手に入れたヴァレンティノを、ケン・ラッセルは、本当はそんなものよりオレンジ農園を買い、そこでのんびり暮らすのが夢だった男として描いています。
もしかしたら、ケン・ラッセルには、やはり文字通り全てを手にしたヌレエフにも、「オレンジ農園」があるように見えていたのかも・・・
それは亡命という形で捨てざるをえなかった故国だったかもしれないし、あるいは何か別の、名を成し財を成した人には逆に叶えられない、ささやかな夢だったのかもしれないですね。
ジョジョの奇妙な描写
煌びやかで短かったとあるスタアの生涯
1895年イタリアに生まれ、渡米後ボールルーム・ダンサーから端役の俳優へ。そこで大女優のアラ・ナジモヴァに気に入られて彼女の相手役に大抜擢、瞬く間に女性の心を捉え、アメリカのセックス・シンボルに・・・幸運を運んでくる女たちに支えられたヴァレンティノの生涯。
wikiによれば、ヴァレンティノが31歳で亡くなった時、葬儀は10万人のファンが詰めかける騒動に、後追い自殺も出たのだとか。
一方で、重婚による逮捕歴やマスコミのバッシングなど、毀誉褒貶の激しい人でもあったようです。
ケン・ラッセルが監督をつとめた本作では、『華麗なるギャッツビー』と同じくローリング20’sのアメリカはハリウッドを舞台に、まるで時代を象徴するように一瞬燦然と輝き、燃え尽きた、ヴァレンティノの半生を描いていきます。1977年の作品。
伝説のバレエ・ダンサー、ルドルフ・ヌレエフがヴァレンティノ役
(ヴァレンティノとニジンスキーのタンゴ・シーン)
この映画が凄いのは、あの世界的バレエ・ダンサーのルドルフ・ヌレエフが、ヴァレンティノを演じていること。(ヌレエフについては先月記事にした彼の伝記映画の記事を参照してください。)
ヌレエフの先人で彼と並び称される偉大なバレエ・ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーがヴァレンティノにタンゴを教えたという「伝説」にヒントを得たのか、本作ではヴァレンティノの友人としてニジンスキー(勿論本人ではありません)が登場します。
当初ヌレエフがオファーを受けたのはニジンスキー役のほう。ところがケン・ラッセルの気がかわり、主役のヴァレンティノのほうを演じてみないかということになったようです。
ヌレエフは、
「ホモセクシャルを演じるのは難しく、才能のない人間を演じるのは殆ど不可能です」
と難色を示したのだとか。
しかし、ケン・ラッセルの熱意にほだされたのか、結果的に彼はヴァレンティノ役を引き受けています。
ヌレエフの言う通り、彼が演じると才能がない男には見えない・・・いや、実際はヴァレンティノは曲がりなりにも大スターだったわけですから、華もあれば才能もあったんじゃないかと思うわけですが。
ただ、ヌレエフ版ヴァレンティノの「才気が滲み出てしまう難点」を緩和しているのが、本作のシニカルかつコミカルなトーン。
『ホワイト・クロウ』のヌレエフは気性の激しい天才、彼の登場シーンはいつも空気が張つめていただけに、本作でごく自然に可笑しみを振りまいているヌレエフの姿に、役者としての彼の思いがけない引き出しの多さを見せつけられた感がありました。
ジゴロ体質がもたらした幸運
(極端に占い好きな二度目の妻に振り回されるヴァレンティノ)
実際のヴァレンティノはどうだったのか詳しいことは分かりませんが、少なくとも映画のヴァレンティノは節目節目で女性に引き上げられていくジゴロ体質。
まずニューヨークのダンス教室で闇社会の顔役の妻といい仲になり、亭主にバレて修羅場になった後はダンサーの女とロスへ、そこで付き合い始めた女優のツテで映画出演、さらに女性プロデューサーの眼にとまり、大女優に気に入られ、資産家令嬢の女性美術監督と結婚・・・と、次々に彼を盛り立てる女が現れ、その都度ビッグになっていきます。
そしてそこに、大女優に逆らえないハリウッドの映画会社や、ヴァレンティノの女性人気に目をつけ広告塔にしようとする企業が絡んでくる。
ヴァレンティノ自身は周囲に流されているうちに、当世一のセックス・シンボルに祀り上げられた体。
これがケン・ラッセルのヴァレンティノ観・・・結構辛辣ですね。
ただ、コミカルで突き放したトーンが貫かれているせいか、さらっと眺めることができます。
劇中で、ヴァレンティノにはゲイだという噂があったということになっているんですが、それにしては女性と2度結婚+1度婚約しているし、人生の節目節目には必ず男ではなく女がいる・・・不思議です。
ゲイだという噂が本当だったとしたら、ヴァレンティノの素顔には本作には描かれなかった部分が多々あるのかもしれません。
面白いのは、ヴァレンティノの周囲には何故かレズビアンが多いということ。
ヴァレンティノと2度目の妻ナターシャの関係に嫉妬して嫌がらせを仕組んでくる女優ナジモヴァも、ヴァレンティノを奪われたくないのかと思いきや、実は狙いはナターシャのほう。
ヴァレンティノの葬儀で再会したナジモヴァとナターシャが、結婚行進曲をBGMに手に手をとって去っていく(葬式にですよ!)・・・なんてシニカルな描写も。
ナジモヴァがレズビアンだったのは事実のようですが、ケン・ラッセルはナジモヴァ・ヴァレンティノ・ナターシャの三角関係に何かドラマ性を感じていたみたいですね。
違う意味での「肉体派」
セックス・シンボルというヴァレンティノの位置づけにふさわしく、濡れ場も多い本作。スチール画像にもあるように、ヌレエフが脱ぐシーンが多々あります。
当初ヴァレンティノ役には同じイタリア系のアル・パチーノを、という話もあったようなんですが、この作品を観てしまうと、それは絶対考えられなくなります。
というのは、ヌレエフのカラダがあまりにも美しいから。
バレエってここまで美しい筋肉、美しい姿勢を作り出すものかと・・・彼の容姿は素晴らしくスクリーンに映えるし、彼の起用によって最高に絵になるダンスシーンをふんだんに盛り込めたことで、20年代のハリウッドらしい華やかさもグンと加わった気がします。
ヌレエフといえども本作の中ではヴァレンティノ、さすがにバレエは披露できませんが、ヌレエフが好んで演じていたニジンスキー作の『牧神の午後』のオマージュ・シーンがあるのはヌレエフ目当てで観た人への嬉しいサービス。
ヌ
レエフが牛柄に体をペイントして葡萄を持ち、ニンフに扮した女たちと一緒にカメラの前でポーズを取るというもので、彼らがコスプレ写真撮影を楽しんでいるのを眺める形で、『牧神の午後』のエッセンスを堪能できます。
(ヴァレンティノの『牧神の午後』ごっこ)
ヴァレンティノはその肉体で女性を魅了していくセックス・シンボルという意味で「肉体派」の部類に入ると思うんですが、ヌレエフも肉体で芸術を表現するバレエ・ダンサーという意味では「肉体派」。
そう言えば、ヌレエフも、亡命を助けたクララ・セインといい、さまざまな場面で女性に救われた人なんですよね。
全く重なるところがないように見えた2人にも意外に共通点があったんですね。
それにつけても、どうしてもヌレエフにヴァレンティノを演じさせたいとケン・ラッセルに思わせたものは何だったのか・・・この映画を観ると、思いつきそうで思いつかない、素晴らしいキャスティングに思えます。
美女に囲まれる生活も富も名声も手に入れたヴァレンティノを、ケン・ラッセルは、本当はそんなものよりオレンジ農園を買い、そこでのんびり暮らすのが夢だった男として描いています。
もしかしたら、ケン・ラッセルには、やはり文字通り全てを手にしたヌレエフにも、「オレンジ農園」があるように見えていたのかも・・・
それは亡命という形で捨てざるをえなかった故国だったかもしれないし、あるいは何か別の、名を成し財を成した人には逆に叶えられない、ささやかな夢だったのかもしれないですね。
描写 関連ツイート
デレマスとテイルズのコラボイベントで歴代キャラと共鳴して戦闘力を得た(という劇中描写の)アイドル達相手に乱入しにきただけで、
別にバルバトスがアイドルに目覚めたわけでもないし歌いも踊りもしません。
で…